にんげんを眺めていると気が滅入る 新家 完司
善人はときどきズボンずり上げる 今川 乱魚
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「あきこさんは、ユーモア川柳を採らない」と言われたことがある。ユーモア川柳が好きとか嫌いとか、そういうことを意識したことはない。こころに届くかどうかを基準に選をしているので、たまたまその中にこれはと思うユーモア川柳が見当たらなかったというだけの話である。強いて採る必要は無いとは、いまも思っている。川柳に詠む喜怒哀楽のうち、人のこころを打つユーモア川柳は、もっとも難しいのではないか。どこにでも転がってそうなユーモアでは、心に届かないから採れないのである。
少し前に届いた「川柳公論 別冊第2号」の巻頭に、尾藤三柳先生の「川柳の笑い 笑いの川柳」という一文がある。これを読んで、ユーモア川柳の取捨の是非について、いままでなんとなくこころに引っ掛かっていた疑問が氷解した。下にその一文を記させていただく。
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川柳の笑い 笑いの川柳
「川柳の笑い」と「笑いの川柳」との違いについては、機会あるごとに筆を労してきたが、現在なお充分な理解が得られたとはいえない。
川柳の歴史的要素に「笑い」が含まれていたことを楯にとって、「川柳は笑いの文芸だ」、「川柳には笑いがなければならない」と決めつけるのは、正しい態度とはいえない。
世の中の矛盾撞着を風景化すれば、結果として笑いを引き出すことが多いからといって、もともと矛盾撞着と笑いには因果関係はない。特に現代社会の入り組んだ文脈には、笑う要素が立ち入れないシビアな現実が置かれている。
現代人を無理に笑わせようとすれば、過去に一度人を笑わせたステレオタイプの要素を持ち出すか、吉本流の安直なナンセンスのどちらかしかない。
笑いの価値を一段低く置いた明治の近代化以後、社会の表面から深く沈潜した現代は、「笑いの川柳」が手づかみで拾い上げられるような要素は落ちていない。にもかかわらず、ひたぶるに笑いを追い続けることにどれほどの意義があろう。頑固な社会通念にいつまでも縛られていないで、自然発生的な「川柳の笑い」に後事を託して、新しい世界に視点を据え直してはいかなものか。(尾藤三柳)
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