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(写真はイメージです)

川上三太郎の世界

~伝統と革新をつなぎ「川柳研究」を育てた川柳六大家のひとり~

 近代川柳の歴史を語るとき、忘れることのできない人物が川上三太郎(かわかみ・さんたろう)です。川柳六大家のひとりとして昭和川柳の黄金時代を築き、伝統川柳を大切にする一方、新しい詩性を備えた川柳にも積極的に目を向けました。そして、現在まで続く川柳研究社の礎を築いた人物でもあります。川上三太郎の歩みをたどることは、そのまま近代から現代へと続く川柳の発展を振り返ることにもなるでしょう。

■ 川上三太郎とは

 川上三太郎は、明治24年(1891年)1月3日、東京市日本橋区蠣殻町に生まれました。本名は川上幾次郎。大倉商業学校(現在の東京経済大学の前身)を卒業しています。少年時代から川柳に親しみ、13歳ごろから句作を始め、やがて近代川柳の革新に大きな足跡を残した井上剣花坊の門に入りました。新聞人として東京毎夕新聞社などで働く一方、川柳作家として頭角を現し、昭和4年(1929年)には国民新聞の川柳欄の選者となりました。その後、川柳の創作、選句、評論、後進の育成、新聞やラジオを通じた普及活動など、多方面から川柳の発展に力を注ぎました。昭和41年(1966年)には第1回川柳文化賞を受賞し、同年には紫綬褒章を受章しています。昭和43年(1968年)12月26日、77歳で生涯を閉じました。

■ 昭和川柳を代表する「川柳六大家」

 川上三太郎は、川上三太郎、前田雀郎、村田周魚、麻生路郎、岸本水府、椙元紋太とともに、昭和川柳の黄金時代を築いた「川柳六大家」のひとりに数えられています。六大家はそれぞれ異なる川柳観と作風を持ちながら、結社や柳誌を率い、多くの後進を育成しました。なかでも三太郎の大きな特徴は、伝統川柳と詩性川柳の両方を認めたことでした。人間のおかしみや生活を詠む伝統的な川柳を基本としながら、そこへ文学性や詩情を取り込んでいく。この二つの方向をともに追求したことから、三太郎の川柳はしばしば「二刀流」「二刀主義」と評されました。ただ新しければよいというのではありません。伝統という土台をしっかり身につけ、その上で新しい表現に挑戦する。この姿勢こそ、三太郎の川柳観の重要な部分だったといえるでしょう。

■ 川上三太郎と「川柳研究社」

 現在の川柳研究社を語るうえで、川上三太郎はまさに原点となる人物です。昭和5年(1930年)、三太郎は「国民川柳会」を結成しました。その活動から生まれた柳誌「国民川柳」は、昭和9年(1934年)に「川柳研究」と改題されます。ここから、三太郎を中心とする「川柳研究」の歴史が本格的に始まりました。

 「川柳研究」では、伝統川柳だけに閉じこもることなく、詩性や新しい表現を求める作品にも門戸を開きました。一方で、奇をてらっただけの作品や、伝統を知らないまま新しさだけを追いかける作品には厳しい姿勢を取ったと伝えられています。つまり三太郎が目指したのは、「伝統を踏まえて、新しい川柳へ進む」という道でした。戦争末期の昭和19年(1944年)、「川柳研究」は169号で休刊を余儀なくされました。しかし戦後、関係者の尽力によって昭和21年(1946年)12月に復刊。その流れは現在の川柳研究社へと受け継がれています。三太郎が昭和5年に蒔いた一粒の種が、時代を越えて今日まで生き続けているのです。

■ 三太郎が求めた「人間探求」の川柳

 川上三太郎が川柳に求めたものは、単なる言葉遊びや笑いだけではありませんでした。その根底にあったのは「人間を詠む」という考え方です。人間の喜び、悲しみ、孤独、欲望、滑稽さ、弱さ。人間という存在には、いくら掘っても掘り尽くすことのできないものがある。だからこそ川柳には終点がない。三太郎は、そのような「人間探求」を川柳の大きな使命として考えていました。この思想は、のちの現代川柳にも大きな影響を与えました。

■ 川上三太郎と時実新子

 三太郎の後進育成を考えるうえで、特に注目したいのが時実新子(1929~2007)との関係です。時実新子は25歳ごろから新聞への投句を始め、本格的に川柳の世界へ入っていきました。そして、その後川上三太郎に師事します。新子は三太郎のもとで川柳を学び、やがて「川柳研究」にも深く関わりながら、自らの表現を磨いていきました。昭和38年(1963年)には第一句集『新子』を刊行。その後、女性の情念、愛、孤独、生と死などを真正面から詠み、従来の川柳にはなかった強烈な自己表現の世界を切り開いていきます。

 昭和62年(1987年)の句集『有夫恋』は大きな話題となり、川柳にそれまで馴染みのなかった一般読者にも「時実新子」の名を広く知らしめました。三太郎と新子の作風は同じではありません。むしろ、新子は師の教えを受けながら、やがて自分だけの川柳世界を築いていった作家でした。

 しかし、その根底にある「川柳によって人間そのものを掘り下げる」という姿勢を考えると、三太郎から新子へ流れていった精神的な系譜を見ることができます。師が弟子を自分の型にはめるのではなく、その個性を伸ばし、新しい川柳へ送り出す。時実新子という大きな才能を育てたこともまた、川上三太郎が現代川柳に残した重要な功績のひとつでしょう。

■ 新聞を通して川柳を社会へ

 三太郎は結社の中だけで活動した川柳家ではありませんでした。昭和25年(1950年)に読売新聞で「よみうり時事川柳」が始まると、初代選者を務め、昭和43年(1968年)まで選を担当しました。新聞という大きなメディアを通じ、社会や政治、庶民の暮らしを十七音で切り取る川柳を広く一般社会へ届けました。

 また新聞だけでなくラジオなどにも活動の場を広げ、川柳を一部の愛好者だけの文芸にせず、広く社会へ普及させることに力を尽くしました。川柳の文学的な地位を高めることと、川柳の裾野を広げること。三太郎はこの二つを同時に進めた川柳人だったのです。

■ 川上三太郎が川柳界に残したもの

 川上三太郎の功績を振り返ると、大きく5つにまとめることができると思います。

第1に、昭和川柳の黄金時代を築いた川柳六大家のひとりであったこと。

第2に、伝統川柳と詩性川柳をともに追求し、川柳表現の幅を広げたこと。

第3に、川柳研究社の礎を築き、「川柳研究」という発表と研鑽の場を後世に残したこと。

第4に、時実新子をはじめ、多くの優れた川柳作家を育てたこと。

第5に、新聞やラジオなどを通じ、川柳を広く社会へ普及させ、その文学的地位の向上に努めたこと。

 これらを総合すると、三太郎は単なる「名句を残した川柳作家」ではありません。川柳を作り、川柳を育て、川柳を広め、そして次の世代へ手渡した人だったのです。

■ 川柳研究社に今も生きる三太郎の精神

 川上三太郎が目指した川柳は、古いものを守るだけの川柳ではありませんでした。しかし、新しいものなら何でもよいという川柳でもありません。伝統を学び、その土台に立って、自分自身の言葉で一歩前へ進む。その姿勢は、三太郎亡き後も川柳研究社に受け継がれてきました。昭和5年(1930年)の創立から長い歳月を経た今日も川柳研究社が活動を続けていること自体が、三太郎の蒔いた種が今なお花を咲かせ続けている証しではないでしょうか。川上三太郎から時実新子へ、そして多くの後進たちへ。その流れをたどっていくと、川柳とは単に十七音の作品を作るだけではなく、「人間とは何か」を問い続ける文芸であるという三太郎の思想が浮かび上がってきます。川柳六大家のひとり、川上三太郎。その存在は、現代川柳を考えるうえでも、今なお大きな道標となっているのです。

柳山

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