川柳の数学的論考――五七五の数理
川柳と数学。一見すると、これほど縁遠い組み合わせもないように思える。川柳は人間の喜怒哀楽を十七音に託す感性の文芸であり、数学は数字と論理によって解析する学問だからである。
しかし、少し視点を変えてみると、両者の間には意外なほど多くの接点がある。そもそも川柳は「五・七・五」という数字によって骨格が決められた文芸である。しかも、その数字を数学の目で眺めると、なかなか興味深い世界が見えてくる。
五と七は、ともに素数
まず注目したいのが「5」と「7」である。5も7も、1と自分自身以外では割り切れない素数である。
川柳・俳句の基本形は、5+7+5=17となる。面白いことに、合計の17も素数である。
つまり五七五は、素数+素数+素数=素数という形になっている。
もちろん、日本の詩歌が素数を意識して五七五になったわけではない。これは数学的には偶然である。しかし、その偶然が実に美しい。さらに短歌を見てみよう。5+7+5+7+7=31である。
驚くことに、31もまた素数である。したがって、川柳・俳句の17音も、短歌の31音も、総音数が素数なのである。そして各句を構成する基本単位も5と7という素数である。
これは日本の短詩型文学を数学的に眺めたときの、小さな「数の美」と呼んでもよいのではないだろうか。五七五は左右対称である。もう一つ面白い特徴がある。五七五を数字だけで書けば、5―7―5となる。
右から読んでも左から読んでも同じである。数学的な言い方を借りれば、回文的な対称構造を持っている。中心に最も長い「7」を置き、その両側を「5」が支える。これを視覚化すれば、短―長―短という構造である。これに対して短歌は、5―7―5|7―7となり、五七五で一度まとまりながら、さらに七七によって世界を広げる。
川柳・俳句が17音で「切る」文芸だとすれば、短歌は31音まで「伸ばす」文芸とも考えられる。数字の構造そのものが、それぞれの文芸の性格とどこか響き合っているように見えるのが面白い。
【なぜ川柳は六八六ではないのか】
ここで素朴な疑問が生じる。なぜ日本人は五七五を心地よいと感じるのだろう。仮に、6―8―6でもよかったはずである。こちらは合計20音である。しかし実際に声に出してみると、五七五とはかなり印象が違う。 五と七はいずれも奇数である。したがって五七五には、偶数による均等な安定とは違う、わずかな揺れが生まれる。
数学的に五七五の快さを「素数だから」と証明することはできないが、日本語の歴史、音韻、古代以来の五七調・七五調などを抜きにして説明することもできない。しかし数学的な視点から見るなら、5 → 7 → 5という「伸びて、戻る」運動があることは確かである。 私はここに五七五のリズムの面白さを感じる。
「川柳は言葉の最適化」である
数学には「一定の条件の中で最もよい答えを探す」という考え方がある。数学でいう最適化である。
川柳もよく似ている。作者には言いたいことが山ほどあるかもしれない。しかし使える器は基本的に17音しかない。そこで、何を残すか。何を捨てるか。どの語を選ぶか。どこで転換するか。どこまで読者に言わずにおくかを考える。つまり「17音という制約の中で表現効果を最大にする」のである。
そう考えると、川柳の推敲とは数学的な「最適化」に近い。一句について十通りの表現を考え、その中から一つを選ぶ。その一語をさらに助詞一つまで検討する。 川柳作家が日常的に行っている推敲は、実は極めて論理的な作業だと言える。
推敲とは「引き算」である
数学では複雑な式を整理し、より簡潔な形にすることがある。
川柳にも同じ美学がある。説明を足せば意味は分かりやすくなる。しかし、説明しすぎれば川柳としての余韻がなくなる。そこで不要な言葉を削る。17音という小さな器では、何を書くか以上に、何を書かないか
が重要になる。私はこれを【推敲=言葉の引き算】と考えている。
ただし、引けば引くほどよいわけではない。削りすぎれば意味が伝わらない。
したがって、説明量-省略量=読者が共感できる最適地点を探す。もちろん実際にこんな方程式が存在するわけではないが、川柳作りの感覚を数学的に表すなら、このようになるのではないかと考えている。
少し難しい話が続いて恐縮だが、川柳を数学的に分析してみると面白い。そして何よりも「川柳は日本語の限りない深さと美しさに魅了される短文の文芸である」と痛感する。数学的に解析しても川柳は大変魅力的な文芸であることが分かる。
柳山
Loading...



















































