(写真はイメージです)
岸本水府の世界
~「番傘」を育て、本格川柳を全国へ広げた川柳六大家~
近代川柳の歴史を語るうえで、岸本水府(きしもと・すいふ)は欠かすことのできない人物です。川柳六大家の一人として知られ、柳誌『番傘』を育て上げ、川柳を一部の愛好家だけのものではなく、広く社会へ普及させることに力を注ぎました。また水府は広告界でも活躍しました。言葉を短く、分かりやすく、しかも印象深く伝える――。その感覚は、水府の川柳にも通じています。
■ 岸本水府の略歴
岸本水府は、1892(明治25)年2月29日、三重県鳥羽に生まれました。本名は岸本竜郎。大阪成器商を卒業後、大阪貯金局に勤務し、その後、桃谷順天館、福助足袋、寿屋、グリコ本舗などで広告・宣伝の仕事に携わりました。川柳との本格的な出会いは1909(明治42)年。関西川柳社の西田当百に師事します。
1913(大正2)年、西田当百らとともに柳誌『番傘』を創刊。水府は編集・選者として活躍し、やがて『番傘』の中心人物となっていきました。その後、全国各地に番傘系の川柳会を組織し、ラジオなど新しいメディアも利用して川柳の普及に尽力。1965(昭和40)年8月6日、73歳で亡くなりました。
■ 「番傘」を全国的な川柳結社へ
『番傘』の前身となる関西川柳社は1909年、西田当百を中心に設立されました。そして1913年に柳誌『番傘』が創刊されます。水府はその創刊に加わり、当百から活動を受け継いだのち、『番傘』を全国規模の川柳結社へと発展させていきました。現在も番傘川柳本社には全国各地に傘下川柳会があり、「岸本水府理念を基本とする」とされています。水府が育てた大きな樹が、百年以上を経た今日まで枝葉を伸ばし続けているといえるでしょう。
■ 水府が目指した「本格川柳」
岸本水府の大きな功績は、伝統川柳を踏まえながら、そこへ近代的な生活感覚や人間性を取り込み、「本格川柳」を追求したことです。単なる駄洒落や言葉遊びに終わるのではなく、人間そのものを詠む。暮らしの喜び、悲しみ、親子の情、男女の機微、社会への視線――そうした人生の実感を、平明な言葉によって十七音に凝縮することを大切にしました。その考え方は、現在の番傘川柳にも受け継がれています。
■ 川柳への偏見を取り除く「第四運動」
戦後の水府は、川柳に対する世間の偏見を取り除くことにも力を注ぎました。川柳を単なる滑稽や俗な笑いの文芸として扱うのではなく、人間や人生を描く短文文学として広く社会に認知してもらうための運動を展開しました。水府はこうした取り組みを川柳史上の「第四運動」と位置づけました。
川柳そのものを変えるだけではなく、社会の「川柳を見る目」を変えようとしたところに、水府の大きな志があり川柳人としての功績がありました。
■ 広告人・岸本水府
水府には、もう一つの顔がありました。それが広告人です。福助足袋やグリコなどの広告・宣伝部門で活躍し、短い言葉によって人の心をつかむ仕事に携わりました。川柳と広告には共通点があります。長々と説明するのではなく、短い言葉で読み手の心をつかむ。しかも、一度読んだら忘れられない言葉を作る。広告の第一線で磨かれた水府の言語感覚は、その川柳観にも少なからず影響を与えたのではないでしょうか。
■ 水府の句に見る魅力
水府の代表句には次のような句があります。
電柱は都へ続くなつかしさ
ぬぎすててうちが一番よいという
道頓堀の雨に別れて以来なり
今にして思えば母の手内職
どの句も難しい言葉はありません。しかし、読む者の心に優しい気持ちが沸き起こるような句が多く残されています。『道頓堀の雨に別れて以来なり』は田辺聖子が書いた岸本水府の世界を描いた渾身のライフワーク2500枚の伝記巨編のタイトルにもなっています。また水府には、母を詠んだ作品も数多くあります。身近な生活の一場面から人間の情愛をすくい上げることも、水府川柳の大きな魅力です。
■ 川柳六大家の一人として
岸本水府は、近代から昭和へと続く川柳界を代表する「川柳六大家」の一人として位置づけられています。水府の特徴は、優れた作品を残しただけではありません。柳誌を編集する。選者として後進を育てる。
全国に川柳会を広げる。ラジオなどを通じて一般社会へ川柳を届ける。そして川柳を文学として確立しようとする姿勢が多くの川柳人に影響を与えました。つまり水府は、「作家」「選者」「編集者」「組織者」「普及者」といういくつもの役割を担った人物でした。
■ 現代へ続く岸本水府の精神
岸本水府が世を去ってから半世紀以上が過ぎました。しかし『番傘』は現在も発行され、その理念は全国各地の柳人へ受け継がれています。水府が目指したのは、決して難解な川柳ではありません。日常生活を見つめ、人間を見つめ、誰にも分かる言葉の中に深い味わいを込めること。そこには現代の私たちが川柳を作るうえでも、大切なヒントがあります。
分かりやすく、人の心を深く捉える。
面白く十七音の向こうに「人間」が見える。
それこそが、岸本水府が追求した本格川柳の精神だったのではないでしょうか。
岸本水府 略年譜
1892年 三重県鳥羽に生まれる
1909年 西田当百に師事、川柳活動を本格化
1913年 西田当百らと柳誌『番傘』を創刊
大正~昭和期 『番傘』の編集・選者を務め、のち中心的指導者となる
戦前~戦後 全国各地の番傘川柳会の組織化、川柳の普及に尽力
戦後 川柳に対する社会的偏見の是正を目指す「第四運動」を提唱
1965年8月6日 逝去、73歳
■ おわりに
岸本水府が残した最大の財産は、数々の名句だけではありません。川柳を愛する人々が集まり、作品を発表し、互いに学び、次の世代へ伝えていく「場」を育てたことです。現在まで続く『番傘』と全国の番傘川柳会を眺めれば、水府の仕事がいかに大きなものであったかが分かります。名句を残した柳人は多い。しかし、川柳が育つ「土壌」まで残した柳人は多くありません。岸本水府は、まさにその一人だったのです。私も「川柳番傘本社」、「東京みなと番傘川柳会」で岸本水府の川柳の精神を学び続けている一人です。
柳山
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私が東京みなと番傘に入会したのは平成11年のことですが、その頃句会に行くと水府のご子息の吟一さんがみえていました。選の合間にお話をされていましたが、映画のプロジューサーをされていたのでほとんどは映画の話でした。九州の句会へご一緒したこともありますが、一度「吟一さん」の「吟」の字を間違えてひどく叱られたことが記憶にあります。
勢藤潤さま
水府のご子息の吟一さんとのエピソードを有り難うございます。
それも貴重な経験ですね。日本全国の番傘ネットワーク。素晴らしい「川柳の場」を岸本水府は作り上げましたね。
金と暇を工面して、父母を温泉の旅に招待、帰宅直後に家が一番と母。吟一さんと、お会い出来たのは、懐かしく驚きの体験でした。JR大塚駅に近い会場でした
植竹団扇さん
おはようございます。コメント有り難うございます。
吟一さんとの対話は貴重な体験でしたね。
『ぬぎすててうちが一番よいという』の句ができたのもその時だったんですね。
番傘三代目主幹の吟一さんも2007年2月22日に他界されました。
水府の句を母の一言で追体験したという意味です。省略し過ぎました。失礼。