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NHK出版ではEテレで上映した「100分で名著」を別冊で書籍にして情報提供している。その中の一冊が「集中講義:夏目漱石」である。取り上げた小説は「吾輩は猫である」「三四郎」「夢十夜」「道草」「明暗」の五話である。この五話ともアプローチは違うのだが、小説の取り上げ方が面白い。読み進むうちに漱石の小説へのアプローチは、川柳のアプローチと極めて類似していることに気が付いた。以下その点につきまとめてみる。

夏目漱石と川柳――短い言葉に潜む人間観察

 夏目漱石と川柳。一見すると、あまり接点のない組み合わせに思える。『吾輩は猫である』『三四郎』『道草』『明暗』『坊ちゃん』など、日本近代文学を代表する作品を書いた漱石と、五七五の短詩型文芸である川柳。これらの代表作品を読み返してみると、そこには川柳と響き合うものが意外なほど多いことに気が付く。

その第一は「人間を観察する眼」である。

 川柳は自然よりも人間を詠むことを得意とする。見栄、欲、嫉妬、強がり、失敗、夫婦関係、世間体――人間の弱さや可笑しさを十七音ですくい取る。漱石もまた、人間というものを冷静に観察し続けた作家だった。『吾輩は猫である』では、猫の眼を借りて人間社会を眺める。人間たちは真面目に生きているつもりなのだが、少し離れたところから見ると、どこか滑稽である。この「一歩引いて人間を見る」という姿勢は、まさに川柳の「穿ち」に通じる。

第二は「笑いの奥に真実がある」ことである。

 『坊っちゃん』には痛快なユーモアがあり、『吾輩は猫である』には皮肉や風刺が満ちている。しかし漱石の笑いは、単なる面白さでは終わらない。その背後には人間社会への批評がある。川柳も同じではないだろうか。単なる笑いではなくそこには人間観察による『穿ち』の分析が行われている。

定年後名刺に趣味が書ききれぬ (柳山)

 一読すれば笑える。しかし、その奥には定年によって肩書から解放され、新しい人生を楽しむ人間の姿も見える。笑いながら人生を考えさせる。この二重構造は、漱石文学にも川柳にも共通している。

第三は「省略の力」である。

 もちろん長編小説と十七音では表現の規模がまったく違う。しかし漱石には、すべてを説明せず、読者に考えさせる巧みさがある。特に『こころ』などでは、人物の心の奥を読者自身に想像させる余白が大きい。

川柳も説明し過ぎれば味がなくなる。

 五七五で提示された情景の向こう側を読者が想像する。その余白によって一句が十七音以上の世界を持つ。文学において、「書かないことも表現である」という点で、漱石文学と川柳には意外な接点があるように思う。

第四は「人間の矛盾を愛おしむ眼」である。

 漱石の作品に登場する人物は、決して完全な人間ではない。迷い、嫉妬し、意地を張り、ときには失敗する。そこに漱石文学の面白さがある。川柳もまた、立派な人間ばかりを描いてきた文芸ではない。むしろ欠点だらけの人間を詠み、その弱さを笑いながら受け止めてきた。 ここに私は、漱石文学と川柳との最も深い共通点を感ずる。

【人間は可笑しい。だから面白い】

 漱石はそれを小説という大きな器で描き、川柳は五七五という小さな器ですくい取る。長編小説と十七音。表現方法はまったく違っても、その底に流れているのは「人間とは何者なのか」という尽きることのない好奇心なのかもしれない。そう考えると、夏目漱石は案外、川柳人に近い眼を持った作家だったのではないかと思う。

柳山

 

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