一人暮らしだった父が逝って20年を超える。その間ずっと実家の管理をしてきた。草刈り・近所との冠婚葬祭のつきあいなど、すべて私の肩にかかってきた。固定資産税もある。仏壇・遺品の絵画など、処分もできかねてここまできたということ。電気・水道も止めていなかったので、その料金も含め数百万円の維持管理費がかかっている。
なぜ処分できないか? 実家は「物」ではないから、ということに尽きる。20年を超えたいまも、処分にはためらうところがある。しかし、私も自身の老い・病と向き合う歳になった。もう許してほしい、もう勘弁してほしい、もう辛すぎる。だれも欲しがらない家や墓・仏壇といったものに縛られるのは、もういい。
呪縛を解き放つ―実家仕舞いや墓仕舞いは、そのことばの響き以上に辛く厳しい行為だと思う。単なる片づけでも、後始末でもない。長い年月家族が積み重ねてきた記憶の重さをほどいていく作業である。そこには、残された者の想いがこもる。だが、墓は本来故人を想うための器であって、子孫を縛るための鎖ではないはず。家族の形が変わり、墓守の担い手がいなくなる現代において、墓仕舞いは「もう無理をしなくていい」という解放でもある。供養の形は一つではなく、心が向くときにそっと手を合わせるだけでも、故人はきっと受け入れてくれる。
それらはまた、呪縛をほどく行為だ。空き家になった家は、かつての生活のにおいを残しながら、時とともに朽ちていく。押し入れの奥から出てくる古い手紙、色あせた写真、使われないままの食器。それらは、懐かしさと同時に「もう戻れない時間」を突きつけてくる。だが、家を閉じることは過去を捨てることではない。たいせつなのは過去を過去として受け入れ、未来へ向かって歩くための身軽さを取り戻すことだ。
実家仕舞いも墓仕舞いも、どこかで「自分が最後の継承者になってしまった」という孤独感を伴う。だが、その孤独感は役目を終えたものを手放すための力にもなる。家族の歴史を抱え続けるのではなく、必要なものだけを胸に残し、あとは風に返すこと。そうして初めて人は自分自身の時間を生き始めるのではないか。
呪縛とは課されたものではなく、自分が知らぬうちに背負ってきたものなのかもしれない。家を閉じ、墓を閉じることは、その呪縛をほどきこれからの人生を軽やかにするための儀式なのかもしれない。
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あきこさんの父君・欣一先生の教へ子である老生は、あの紀ノ川を越えたお住まひにいくたびかお邪魔しました。また、お墓にも参拝を重ねたがゆゑに、あきこさんの今回のブログをとても感慨深く拝読しました。その思ひにまかせて旧作二句を記します。板坂壽一
・杖に依る師をな照らしそ上り月 ・照り梅雨や師に見透かされゐる墓前
板坂壽一さま
老いて、同様の心配をされる方々も多いかと思います。
時代は変わり、人の考え方もどんどん変わってきます。
生きることも難しいですが、うまく?逝くこともなかなか難しい。
荷物は軽いほうがいいと、足腰が悪くなってからは余計に思いますね。