↑の川柳は、年末に妹を病院に見舞いに行ったと時の実感句です。
譫妄のなかの、妹は子供に対する思いを楽しく、私に聞かせてくれました。
別れは近いなあ…と思いながらも、「良かったねえ」と私は何度も相槌をながら、妹との時間を胸にしまい込みました。その日だけの面会で帰るのは耐えられなくて、病院の近くに住んでいる孫娘の家に泊めてもらい、翌日も妹に会いに行きました。その時はせん妄状態ではなくなっていました。
姪が「おばさんに話したから安堵したんだわ」
5月に会いに行った時も、㊙でペットボトルのお茶を少し上げたら「ごくごく」と飲めてました。
いつかは姪から電話がかかると思いながら日々を送っていましたが、7月10日に電話が掛かってきました。丁度、給料明細書を給料袋に入れている時でした。他に私がやらなければいけない急ぎの事務が2件30分ばかり残っていたので、それを済ませて、高蔵寺駅に向かいました。姪のお婿さんが待っていてくれて病院へ。もう妹は声をかけても私が泣いて泣いて泣いて妹の名前を呼んでも答えてはくれませんでした。
医師が来て、脈やら瞳孔やら何やら診てくれて、7月10日午後8時56分に妹は亡くなりました。小腸全摘出、結腸の半分以上を取ってもらってから1年2ケ月、妹は点滴だけで頑張りました。
姪の話だと、言葉が少なくなったのは、ここ2週間だけだったと言う。
私には妹ほどの頑張り根性はないなあ…と今世での妹の卒業を見守り、頑張りを褒めました。
享年75
妹の連れ合いが遺影の大きい方の写真は要らないというので、私は妹を連れて帰るような気持ちでもらって来ました。隠れ家の方に飾っています。亡くなった長女が生前、私の父や先に亡くなった妹、弟の写真を飾っていた小さな仏壇の上で、多分50代くらいの妹が笑顔で私のやることを見てくれています。
私は10日の夜から守山市内に住んでいる孫娘の家に3泊、秀さんは2泊しました。
秀さん大好きの曾孫君、曾孫ちゃんは大喜び。散歩にいったり、一緒にお風呂に入ったり「おじいちゃん」「おじいちゃん」の連呼。曾孫君は幼稚園に通うようになったからか「おじい」と呼ぶので、私が「おじい、じゃないの、おじいちゃん」と言うと「おじいちゃん」と言い直し、素直です。
11日は一宮市内に住んでいる2番目の孫娘が8か月の曾孫ちゃんと来る事に決まっていたとか。
ラッキーなことに私は3人の曾孫に逢え、仲良く遊ぶ姿を、3歳の曾孫君と2歳の曾孫ちゃんがお兄ちゃん、お姉ちゃんぶりを発揮する姿を眺められました。哀しいなかでしたが、癒してもらえました。
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なんかもう疲れちゃった!。
従業員で、どこでどう情報を仕入れたのか「自分はハローワークにお金を貯めている、長年働いたから、会社都合でやめたという離職票を作ってほしい」と言う人がいて、時々、感情的なメールを送ってきます。今回は送られたメールをコピーして「これは立派な退職願いです。会社は辞めたいという人を止めたりはしません。長年会社のために尽くしてくれてありがとう。会社都合の離職票は法に触れる悪い事だから書いてあげられない。自己都合の退職届を出してくれたら直ぐに離職票を書きます」と日本語の理解力のある従業員を介して問題児君へ通訳してもらいました。翌日7月8日に退職願を持ってきました。
後で後悔するにと思いましたが、退職願を受け取りました。
今日、ハローワークに行って手続きを済ませました。
ハローワークは何度行っても自分の書いた書類に不備がないかとドキドキします。
あ~、これでやっと問題児君から解放されるとホッとし、
溜めてしまった事務員から回ってくる日報のWチェックをしていたら‥、
もういいなぁ…、川柳がやりたい、川柳で脳の切替えをしよう、そんな気持ちになりました。
なにはともあれ、無事に終わった今日に感謝して帰宅することにします。
順子さんお疲れ様でしたね、最愛の妹さまとのお別れ辛く悲しかったですね、LINE頂いたとき、どうお声をかけてよいやら言葉がみつかりませんでした。今はどんな言葉も慰めにはならないと思いますが、どうぞご自身のお体もご自愛くださいませ。充分、妹さまを看てあげました、天国で順子さんに感謝し、その愛を喜んでると思います、実はわたしも妹と一昨年、ビデオ通話中に妹は”ねえちゃん”といったきり息をひきとりました、ほんと辛かったです。
人生いろいろあります、どうぞお体大事にお過し下さいね。
なごみさん、久し振りです。
私は三姉妹でした。両親が離婚する時の話し合いの中で、まだ母の背中に負んぶされていた妹は母が、4歳か五歳の妹は父が引き取ることに決まったと父から聞かされました。七草前の私をどうするかとなった時、母は子守りが欲しいから順子を連れて行くと言ったそうですが、父が順子は長女だから置いて行けと言い、私は亡くなった妹と父に育てられました。
母に育てられた妹が大学生の頃、母に内緒で父に逢いに来ました。
私は父に「とにかく頭を下げろ」と先に言ってました。父は「すまなかった」と何度も頭を下げて、いろんな話をして帰りました。
嬉しい事にも母から聞いていた父と、父が違っていたと言ってくれました。
それから数年たって、私が母に会いにいこうとしたら、父は焼き餅を焼き、私は「生んでもらった人を見に行くだけだが」と言い母に会いに大阪へ行きました。
その日は少しの時間しか話せなかったけど、帰りの新幹線の中で、父に育てられて良かったとしみじみ思いました。その日が縁で、面白い事に父と母は電話で話すようになりました。母の方が先にすい臓がんに罹り、余命幾ばくも無なった時に、父が「敦子はぼっけもんだ、この世では逢えんけれど、あの世で会おうな」と言ったと嬉しそうに話した日なども、妹と難儀をした日と共に思い出しています。
こうして、なごみさんに書いているうちに、佐藤愛子さんの「血脈」を読み直そう、そんな気持ちになりました。元気になりました。なごみさん、ありがとうございます。