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どこにいても自分との対話

 どこにいても、わたしの中にはいつも静かな声がある。外の喧騒とは別に、もっとも深いところで響いている声。わたしは、いつもその声と対話している。

 昨年4月24日、神戸港からピースボートで地球一周の吟行に出た。天候の関係で一日遅れ、108日間の旅になったのだが、その間1,200句ほどを詠んできた。その中から推敲を重ね約500句、新葉館出版さんの全国川柳作家集の中の2冊として今年出版予定。作者たむらあきこの音声付き。下記太字は、その句集の中から。

水音がいつもわたしの中にある
 ─その感覚は、幼いころから変わらない。胸の奥底で流れ続ける音。子どもらしからぬところのあったわたしの、たぶん生きているかぎり消えないたましいのさざめきのような音。

きのうの短篇ひらく花吹雪のように
 記憶は、風に乗って散る花びらのように軽やかに蘇る。蘇った瞬間もう遠ざかる、しかしわたしの中のどこかでまだ舞っている。いま現在のわたしの呼吸の中にも漂っている。

おんがくもひとも過ぎゆく華なのか
 音楽も人も、触れたと思った瞬間にもう過ぎていく。自問するとき、そこには寂しさよりも透明な諦念がある。華は散るからこそ美しい。「おんがく」も「ひと」も、留めようとしても指の間からこぼれ落ちる。

わたくしのひとり 山頭火の一人
 吟行で歩いていると、自分の影が伸びたり縮んだりする。その影と一緒に歩く。わたしもそうだが、山頭火の「一人」も孤独ではなかったのではないか。たぶん「一人」は究極の充実、わたしの「ひとり」が世界と溶け合う時間であるように。風が頬をかすめるとき「わたくし」は解き放たれる。

コトバかも知れぬ風音かもしれぬ
 ─その曖昧さの中に、わたしは自分の声を聴いている。ことばになる前の、もっと柔らかい思考の欠けらのようなもの。どこにいても、わたしはわたしと話している。掌編小説のようなあのひととのかかわりの記憶の中で。自分との対話は、場所も時間も選ばない。いささかの静けさがあれば、どこででも始まる。歩きながら、立ち止まりながら。世界がどれほど騒がしくても、わたしの中の水はひそやかに流れ続けている。そこに耳を澄ませば、句が立ち上がる。

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⦅3855⦆どこにいても自分との対話”にコメントをどうぞ

  1. 渡辺柳山 on 2026年8月21日 at 11:21 PM :

    「心の中の声と会話する」、素敵な言葉ですね。川柳も、心の奥から聞こえてくる小さな声を五七五にする文芸なのかもしれません。心の声に耳を澄ますことの大切さを改めて感じました。

  2. たむら あきこ on 2026年8月22日 at 1:21 AM :

    渡辺柳山さま
    もう長く吟行を重ねております。
    知らない土地を歩いていると、さまざまな想いが浮き上がっては、消える。
    風景は、たぶんごくわずかしか見えていない。
    関心は、つねに自分の中の「声」なんですね。
    その声を引き出すきっかけをもらう、そのための吟行です。
    俳人の吟行とは、違います。

    • 渡辺柳山 on 2026年8月23日 at 6:56 PM :

      たむらあきこ様

      俳句の吟行は情景を詠みこみますが、川柳の吟行はその情景からのインスピレーションで自分の中からでてくる言葉との対話ですね。吟行も良い刺激になります。

  3. たむら あきこ on 2026年8月23日 at 9:23 PM :

    渡辺柳山さま
    やはり〈にんげん〉を詠む川柳、自分の目やこころを通じて人間を探る習性が出来てしまっているのでしょうね。
    川柳の吟行とは、そのような吟行だと思うのです。
    ですから、どこに行って何があった、何が綺麗だった、何が美味しかったというようなことばかり詠むのは違うと思うんですね。
    吟行句会開催のお知らせもあちこちで目にしますが、どんなものでしょうか。

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