少年兵の骨も藻屑と呼びますか 前田咲二
「少年兵」という語がもつ残酷さは、この年齢に国家の都合が直結してしまうこと。しかも、「藻屑」で海に沈んだ自然物の一部として処理されること。しかし前田咲二はそれを肯定も否定もせず、ただ「呼びますか」と読者に問いかける。そのことが、逆に痛みを増幅させる。「呼びますか」と下五は読者に判断を委ねるが、読者はその問いに答えられない。答えられないこと自体がこの句の重さとなる。
前田咲二の卒業した江田島の海軍兵学校は単なる士官養成機関ではなく、生徒に「生き方の骨格」を刻み込む場だった。まず、徹底した自己鍛錬。厳格な規律の中、早朝から夜まで続く学業と訓練。礼式や作法に至るまで疎かにしない生活だった。そこでは、己を律する者だけが他者を導けるという価値観が植え付けられた。彼らの矜持とは外に示す誇りではなく、内側に課す厳しさだった。
海軍兵学校は国家の命運を担う士官を育てる場であり、卒業生は若くして部隊を率い、部下の命を預かった。だからこそ彼らは「命令を遂行する」こと以上に「自ら判断し、結果に責任を負う」ことを求められた。責任から逃げない姿勢は、戦場だけでなく戦後の社会においても彼らの人格を形づくった。
江田島の教育が強く育んだのは仲間への深い連帯感だったという。寝食を共にし、極限の訓練を乗り越えた経験は、単なる友情を超えた「戦友意識」を生んだと。仲間の名誉を守ることを自らの名誉とし、互いの弱さを補い合い、困難に際しては黙って支え合ったと。この連帯感は、戦後の社会で彼らが多くの分野で活躍した際にも互いを励まし合う力となった。
彼らの矜持を語るうえで欠かせないのが、沈黙の美学だという。自らの功績を語らず、戦争の悲惨を声高に叫ぶこともなかった。語らないことは忘却ではなく、責任の引き受け方だったと。敗戦後、多くの卒業生が社会の中で静かに働き続けたのは、「国家に尽くした者として、最後まで品位を保つ」という意識があったからだと。彼らの矜持とは、自己鍛錬・責任・連帯・沈黙の品位が重なり合って形成された精神。それは軍人としての誇りであると同時に人間としての生き方の規範でもあったのだ。
ヒロシマの焦土を踏んだ足のうら 前田咲二
「ヒロシマ」「焦土」の二語だけで、読者は戦後の焼け跡へ連れていかれる。しかし前田咲二の句はその惨状を描写しない。ただ「踏んだ」とだけ言うことで、視覚ではなく触覚の記憶となる。前田咲二はほとんど声高には叫ばない。この句も。
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井伏鱒二の『黒い雨』を読むと原爆直後多くの広島の人はきのこ雲とは呼ばずに「くらげ雲」と言っていたようです。どのタイミングで、どんな理由で「きのこ雲」に統一されたのか興味深いですね。
月波与生さま
咲二先生は、江田島の海軍兵学校出身。さいご(75期)の卒業生です。
広島に原爆投下後、その焼け跡を通って和歌山に帰られたのね。江田島からキノコ雲が見えたとおっしゃっていました。
その印象は、「キラキラして、美しかった」そうです。そのときは原爆とは誰も知らなかったのね。
先生は、「戦争は、アカンな」と、ひと言おっしゃった。実感でしょう。