川柳と俳句、どちらも十七音の定型詩。どちらが自分の呼吸に近いのか、静かな波の満ち引きにも似た、感性のちょっとした違和の問題かもしれない。
川柳は、にんげんを絡めた世界をすくい上げる器。人の表裏、人と人とのあいだの湿度、ふとした孤独感など。俳句よりも自由で、ときに荒々しく、ときにひそやかに、ことばがにんげんの体温を帯びて立ち上がる。その自由さは、かつて‘東の横綱’と称された師・前田咲二の句 《わたくしの干潟が満ちるまで遊ぶ》にも象徴されている。干潟という内的な風景が満ちていく時間を「遊ぶ」と。これは従来の俳句ではなかなか許されない飛躍かもしれない。川柳は、心の底に沈む泥までも素材にする。
一方、前衛俳句は季語という古い羅針盤も使いながら、風景の奥に潜む異質なものを照らし出す。金子兜太は、その羅針盤をねじり風景(世界)の裂け目を見せた。《梅咲いて庭中に青鮫が来ている》、この句は俳句の形式を守りつつも現実の世界に異界を流れ込ませる。俳句は本来‘自然と人の交わる一点’を詠むものだが、兜太はその一点を深海へと引きずり込んだ。前衛俳句とは、形式の厳しさの中でどれだけ世界を変形できるかに価値があるようだ。
川柳か俳句か。どちらかを選ぶというより、自分の内側に何が動いているかで決まるのだと思う。にんげんのにおいを詠みたい日には川柳が寄り添い、風景の裂け目を覗きたい日には上記のような俳句が手を引く。結局のところ、どちらも「世界をどう受け取るか」という問いへの答え。名称は違っても、ことばは作家の内側で立ち上がる。
Loading...



















































