どう生きるか‥人生はもう崖っぷち
人生には、「もう崖っぷちだ」と感じてしまう瞬間が誰にでもあるに違いない。選択肢は細り、背中には冷たい風が吹きつけ、前を見ても足場らしい足場が見えない。そんなとき、人は自分の中に沈殿していた痛みや未練を、否応なく見つめることになる。
年ごとに一人二人と知友が逝く。わたしももうすぐ後期高齢。知友の訃に触れるたび、自分の‘崖っぷち’も考えることになる。著書をたぶん十数冊残せるだろうことは、その日のわたしの慰めになるだろう。この世でやり遂げたこと。
かさぶたの下で疼いている未練(前田咲二)
この句は、崖っぷちに立つ者の胸の奥でひそかにうごめくものがあることを、言っている。もう治ったと思っていた傷。触れなければ忘れられると思っていた感情。しかし、かさぶたの下にはまだ熱があり、疼きがあり、あの日の選択や言えなかったことばが沈殿、息をしている。
崖っぷちとは、単なる絶望の比喩ではない。むしろ、人生の選択を迫られる場所かもしれない。何を捨て、何を持ち続け、何を選び直すのか。人は崖っぷちで初めて自分の歩いてきた道をまっすぐに見返すことができる。
未練は弱さではない。未練が疼くということは、そこにまだ「自分のやりたいこと、生きたい方向」が残っているということ。かさぶたの下の痛みは、過去の失敗や後悔ではなく、未来へ向かうための微かな光なのかもしれない。
崖っぷちに立つと、人はしばしば「もう終わりだ」と思う。だが、本当に終わりなのは、選択肢が尽きたときではなく、疼いている未練を見ないふりをしてしまったときなのではないか。痛みを感じるということはまだ感性が生きている証であり、変わりたいと願う心が残っている証でもある。
どう生きるか。 その問いは、崖っぷちに立ったときほど鋭く胸を突いてくる。だが、崖っぷちに立つ自分を責める必要はない。むしろ、そこまで来られたこと自体が強さだ。崖っぷちとは人生の終端ではなく、次の一歩を選び直すための場所なのだ。
かさぶたの下で疼く未練を、そっと確かめるように見つめてみよう。そこにある痛みはまだ生きたいと願っている、方向を示す羅針盤になる。崖っぷちから一歩踏み出す勇気は未練の疼きから生まれる。わたしも、人生はもう崖っぷち。 だからこそここから始める。
Loading...
















































