西行法師生誕の地 (佐藤城址) 吟行10句(2023/1/4)
俗名(ぞくみょう)は義清(のりきよ)影を追っている
ブロンズ像の僧はぽつんと道路わき
うたびとのこころはぐくむ山と川
佐藤城址と呼び名がのこるこれも影
龍蔵院の近く竹群(たけむら)
佐藤城のまぼろし城あとにさがす
この山川に若き西行
耳底の「あこぎ」が影を苦しめる
雲ひとつない里きみへ尽きぬ問い
入寂(にゅうじゃく)はやがてきさらきもちつきのころ
さても西行発心のおこりを尋ぬれば、源は恋故とぞ承る。申すも恐ある
上﨟(じょうらふ)女房を思懸け進(まひ)らせたりけるを、あこぎの浦
ぞと云ふ仰(おはせ)を蒙りて、思ひ切り、官位(つかさくらゐ)は春の
夜見はてぬ夢と思ひなし、楽み栄えは秋の夜の月西へと准(ながら)へて、
有為の世の契を逃れつつ、無為の道にぞ入りにける。(崇徳院のこと)
西行の発心のおこりは、実は恋のためで、口にするのも畏れ多い高貴な女性に思いをかけていたのを、「あこぎの浦ぞ」といわれて思い切り、出家を決心したというのである。「あこぎの浦」というのは、
伊勢の海あこぎが浦に引く網も
たびかさなれば人もこそ知れ
という古歌によっており、逢うことが重なれば、やがて人の噂にものぼるであろうと、注意されたのである。
あこぎの浦は、伊勢大神宮へささげる神饌の漁場で、現在の三重県津市阿漕町の海岸一帯を、「阿漕が浦」「阿漕が島」ともいい、殺生禁断の地になっていた。そこで夜な夜なひそかに網を引いていた漁師が、発覚して海へ沈められたという哀話が元にあって、この恋歌は生れたのだと思う。或いは恋歌が先で、話は後からできたという説もあるが、それではあまりにも不自然で、やはり実話が語り伝えられている間に歌が詠まれ、歌枕となって定着したのであろう。(白洲正子著『西行』より)