Loading...Loading...

言行録からの川柳考                加藤当白

 「物語とは、我々が作りだす(そして、その作者だと主張できる)ものではなく、すでに存在する遺物であり、こちらはそれを掘り起こしているだけなのだ。」
スティーヴン・キング(アメリカの作家)

 これが真実ならば、我々川柳人が日々生み出している句も実はすでにどこかの次元に存在しており、それを見つけた者が一応の作者として世に送り出しているということに過ぎないのか。ではいつ、誰が、どの句を見つけ、なぜその作者なのか、といった疑問を次々と彼にぶつけたところで、ただ「そういうものなんだ」と返されるだけだろう。彼に限らず、ミュージシャンもよく似たことを口にする。「メロディーが降ってくるんだ。それをつかまえているだけなんだよ」。

 ここで私は条件付けをして納得する。掘り起こしたりつかまえたりできるのは、それなりの資格のある者だけなのではないかと。つまり、それまでの経験、感性、または想像力を十分に持ち合わせている者、それらを表現するに足る技術が備わっている者。こうした者だけに、世に送り出すチャンスが与えられるのではないか、ひらめきという形で降ってくるのではないかと。

 我々が句を詠むとき、どれだけ全身全霊を込めて生み出しているのか。その句を生み出すのに、それにふさわしいだけの資格が、はたしてこの自分に本当にあるのか。考えるほどに、キングの言葉には身を引き締められる。

 私は出逢って感銘や衝撃を受けた言葉を、パソコンと心にしまっておく。川柳を始める前からのこの習慣も、まとまった量になってきた。これらを一度川柳人の視点からひもとき、自分なりの解釈をほどこしていこうと思う。冒頭のように、さまざまな文化人(敬称略)の言行録へ、拙い考えを展開していく。なお、テーマ上、本稿では川柳の実作品には触れない。

 「優れた俳人は一世紀に一人か二人出るだけかもしれないが、優れた俳句はいたるところに存在する。」
飯田龍太(俳人)

 少なくとも私自身は優れた川柳人になろうとは思っていない。しかし、優れた川柳を作ろうとは、上達を望む川柳人ならば誰もが目指すところであろう。また、川柳界における世紀の川柳家は誰か、などと畏れ多い議論は私などにはできないが、それぞれの川柳人の胸の中にはいるだろう。では優れた川柳とはどんなものを指すのか。飯田はこうも言う。

 「名句は、俳人も俳人以外の人も感心するもの、秀句は俳人だけが感心する。名句は作者の個性というものから離れていると思う。表現が非常に個性的であるという作品は、秀句の中には入るけれども、名句の中にはあり得ない。」

 秀句の定義はこれで十分わかる。いっぽう名句とは、俳句でも川柳でも万人が理解でき、感心する、世の普遍を詠んだものをいうのか。ここで「名曲」とはどんなものかを考えると解釈の助けになるだろう。また、作者の個性から離れてとは、まさにすでに存在しているものを、資格ある者の誰かが単なる媒介となり、掘り起こし、世に送り出すことをいうのではないか。ただ、結局ここでは優れた川柳とは名句と秀句のどちらなのかまではわからない。だがいずれにせよ、それはいたるところに存在するのだと、飯田は励ましてくれる。

 「脚本の師匠・伊丹万作監督から『原作物に手をつける場合には、どんな心構えが必要と思うかね』と問われ、橋本は『柵の中に牛が一頭いるんです』と切り出した。『私はこれを毎日見に行く。雨の日も風の日も…。それで急所がわかると鈍器のようなもので一撃で殺してしまうんです』。血をバケツに受けて持ち帰る。『原作の姿や形はどうでもいい。欲しいのは生血だけなんです』。牛は原作、血はその神髄を指す。」
橋本 忍(脚本家)

 誠に強烈な橋本の観察眼である。川柳を詠むとき、対象のモノ・コトに対し、どれだけ観察をしているか。そこから神髄を取り出すのに、毎日見て、考えているのか。しかもその原型を壊すというのだ。まずはどこが要所かを見抜く観察眼が必要であろう。そして神髄をつかんだならば、それを血に、いかにして新しい命を生み出していくのか。物事をあらゆる角度から眺めろという姿勢は川柳人には周知の事実だが、これほどまでに徹底しているのかと問われれば、私などはたじろいでしまう。川柳を詠む、掘り起こすにあたり、それだけの資格を得るための具体的な鍛錬法として、橋本の観察眼は示唆に富む。

 「尺八の名人がその演奏の上で望む至上の音は、風が古びた竹藪を吹き抜けていくときに鳴らす音であるということを、あなたは知っていますか。まず、聴くという素朴な行為に徹すること。やがて、音自身が望むところを理解することができるだろう。」
武満 徹(作曲家)

 前述の橋本より柔和な言葉ではあるが、川柳人が心得ておくべきところは同じだ。観察に徹し、その対象自身が表出したいものを掬い取り、形を与えていく。吹き抜ける風のごとく、そこに不自然さがあってはいけない。また武満はこうも言う。

 「始まりも終わりも定かではない。人間とこの世界を貫いている音の河の流れの或る部分を偶然に取り出したものだと言ったら、この作品の性格を端的に明かしたことになります。」

 彼のとある作品についての発言だが、すでに存在しているものを部分的に取り出すという行為は、冒頭のキングの言葉に相通ずるのではないか。では我々川柳人は、詠む対象である人間の何を取り出して、どう十七音に整えていくのか。 

 「誰にでもみな、語るべき物語がある。自分の物語を正直に語りなさい。なぜなら、それは誰にも創造できるものではないのだから。」
ルイーズ・ブルジョワ(フランスの彫刻家)

 日頃、人の世の悲喜こもごもや人間模様を川柳に詠んでいると、すでに誰かが作っていたり、同じことを言っていたりと、ありきたりな自分の発想に嫌気が差すことがある。ではそこから脱け出すにはどうするか。ブルジョワのこの言葉である。この世に一人として同じ人間はいない。自分だけの経験、感性、想像力。その人にしか語ることのできないものを詠めばいい。ただし、この時点ではまだ「個人的」なだけである。川柳は文芸だ。これをいかにして「独創的」にしていくか。そうするには、それらを表現するに足る技術を備えなければなるまい。

 「何もまねしたくないなんて言っている人間は何も作れない。」
サルバドール・ダリ(スペインの画家)

 「ダリは独創的な芸術家だが、10代の頃は誰かの手法をまねたように一作ごとにタッチの違う絵を描き、20代の初個展もバラバラな作風だった。一目でダリとわかる奇想天外な作品は、いわば『まねてまねてまね尽くした』結果のようだ」との解説が続く。

 川柳を詠むのに、いきなり掘り起こせ、つかまえろなどと言ったところで土台無理な話である。ではどこから始めればいいのか。ダリのこの言葉を裏返せばいい。何かを作り出したいのであれば、まずはまねてみる。絵画でも楽器でも、初めは手本をまねる。川柳も実作品を多く読むことから始め、見よう見まねで作り始めればいい。ここでの私なりのポイントを言えば、自分の好きな作家や作風を、初めは様になっていなくても、まずはまねてみるということ。好きなものを知るためにも、いわゆる多読、そして多様な川柳作品に触れることだ。そうするうちに、独創性を伴った表現技術も少しずつ磨かれていくのだと信じている。

 「ある芸術作品に多様な意見がある場合、その作品は新しく、複雑で、活力に満ちている。批評家たちの意見が一致しない場合、その芸術家は自分自身と調和している。」
オスカー・ワイルド(アイルランドの作家)

 どんな芸術にも、前衛的やら実験的といった作品が見られる。発表時には、批評家の感性を超えているからなのか、大方が酷評されよう。だがそれがどんな作品で、対外的にどう評価されようと、作者にとっては表現方法のひとつに過ぎない。そして自己の発露であることにはなんら変わりはない。ワイルドの言うように、川柳においても自分自身と調和しているならば、自分にとって自然のことならば、批評など恐れず、むしろ物議を醸すほどに、斬新に、自由に詠んでいけばいい。それを貫いていけば、やがては自分だけが詠める表現技術、独創性、そして掘り起こせるだけの資格を獲得していくことになるだろう。

 ここまで、強引な解釈や結論の出せていないもの、言及できなかったこともあろうが、七人の言行録を引用し、私なりの川柳に対する思いを考察した。前半では、作品というものは実はすでにどこかの次元に存在しているのではないか、後半では、それらを掘り起こすに足る資格を得るには具体的にどういう方法でやるのか、といったことを論じてきた。

 我々は普段、さまざまな言葉に接している。気になったものをストックし、直接川柳の中に詠み込んだりもする。だがそうした断片的な言葉だけではなく、誰かの発言や語録から川柳というものを捉えてみると、思考を深めることができる。川柳は紛れもなく文芸である。一生追究していくだけの気高さがある。一生かかってもたどり着けない奥深さがある。

 「あなたに詠まれるのを待っていた」という川柳を、いつか世に送り出せることを信じて、今日もまた一句を捻る。
…‥‥‥‥‥‥………‥‥‥‥‥‥………‥‥‥‥‥‥……
受賞のことば

 はじめに、第10回となる本賞へお選びいただきましたこと、誠にありがとうございます。

 句作以外の活動として、私に文章を書くきっかけを与えてくださった、たむらあきこ先生。ブログ上に拙文を何度か掲載していただきました。これに声援をくれたのが真島久美子さん。本賞への応募を勧めてくれたのでした。

 論文のタイトルすら決まらないままに書き始めたのですが、そのうちに方向性が見えてきて、どうにか形にできました。自身の思考と向き合い、アウトプットするという作業は苦しくも楽しく、挑戦し甲斐のある経験となりました。

 ただただ、思いのままに綴っただけのものですが、こうして受賞できたことは、私の浅い柳歴でもハイライトとなっています。この度は本当にありがとうございました。

自己紹介

1977年生まれ。山梨県南アルプス市出身・在住。柳歴5年。無所属。主にネット句会で活動。

ポストする LINEで送る ブックマーク
❤️ ひざポン
ありがとう!

気軽にポチっと
どうぞ(無記名)

秋篠寺吟行14句(2017/11/6) 御堂へ独り香(こう)が迎えてくれている 堂内の静寂夕日裾をひく 大自在天の髪際から化生(けしょう) 福徳円満を立たせている肢体 立像(りゅうぞう)のそのまま天上... 「このみ仏に逢いたい❶‥奈良・秋篠寺の伎芸天(秋篠寺吟行14句(2017/11/6))」の続きを読む
弥生賞 たむらあきこ選43句( は、弥生賞入賞句) 天 愛し抜く私が土になる日本  松本とまと 地 しゃぼん玉ふじへ飛ばしてみませんか  戸田 惠子 人 おにぎりの真ん中にいる日本人  髙田輝亜旗 ... 「(懸賞川柳2020)弥生賞(お題:「日本」)、応募総数3,298句の中から、たむらあきこ選43句」の続きを読む
真剣になるとポキポキ折れる枝   鳥海 ゆい  「真剣」は本物の刀剣。木刀や竹刀に対していう。その「真剣」はさておき、人間の「真剣」は折れやすいと。生真面目な人は柔軟性がないため、折れやすいのである... 「あなたならどう読む?❾‥「難解句鑑賞 №009」(川柳マガジン5月号から転載 執筆:たむらあきこ)」の続きを読む
6月の予定 6月16日(火)川柳マガジンクラブ大阪句会6月句会 6月30日(火)和歌山市文化協会文芸部会 …‥‥‥‥‥‥………‥‥‥‥‥‥……  いまのところ上記のほかに予定はありません。6月下旬から... 「(2020)6月の予定(川柳関係)」の続きを読む
 足かけ十年の 瓦版の会在籍中にいろいろなことがあった。そもそも「(瓦版の会の)後継者として、時事川柳を勉強してほしい」という前田先生の強いご依頼で同人となり、翌年からは編集同人として会のさまざまなこ... 「瓦版の会のこと‥《腋芽伸びるようにきのうが継がれゆく》(たむらあきこ)」の続きを読む
 下記は、今年に入ってから詠んでいた50首のうちの2首。50首をよく推敲して角川短歌賞に応募しようと思っていたのだが、多忙で推敲の時間がとれなかった。応募しなかったもう一つの理由は、選者のお名前を見て... 「応募を断念した「第66回 角川短歌賞」、作品50首のうちの2首」の続きを読む
Copyright All rights reserved. SHINYOKAN PUBLISHING illustration by Nakaoka.K