「川柳塔なら篝火」 3月号掲載の小文「十二の窓⑶」を転載。
十二の窓⑶ たむらあきこ
一時間に60句ほどは詠むだろうか。これはとくに私に限ったことではない。堺市在住の川柳家墨作二郎氏主宰の「点鐘散歩会」に参加したことのある方なら、皆さんそのくらいは詠んでおられる。頭の隅に閃いたことを次々に書き付けていくだけなので、慣れれば誰でもいくらでも詠める。
ただそのあとに推敲が要る。書き付けた句に充分な伝達性をもたせるため、大抵は作句より長い時間を充てる。あとの推敲にいままで培ってきたテクニックを込める。服を縫うのと同じで、テクニックの跡が句(服)の表面にひびいてはならない。テクニックなどは一切使われていないかのように仕立てなければならない。それが柳人としての実力というものだろう。
手垢の付いたコトバばかりを用いたのでは、結局既視感ある内容に繋がってしまうことが多くなる。例えば「義理」「嫁姑」「過去」などはなるべく使いたくない(使ってはいけないということではない)。川柳はまずコトバ探しに始まるのではないかと考えるようになった。いままでに他人が使っていないだろうコトバをいつも探している。電車内の吊り広告にあったこともあるし、雑誌からヒントを貰うこともある。もちろん辞書を繰ればいくらでも出てくる。次に挙げる句(私の句)はご参考まで。
どの蓋を被せて肯定とするか
三叉路のいつか卵胎生になる
抑えきれないわたしの中の原始人
喚びよせるものの昏さよひとこぶ駱駝