淡墨桜の下で
亡父の法名をそっと呼んでみる
たましいの行き先はさくらのはなびら辺り、ほの白く透き通り光る
あなたが逝って四半世紀、あれからの長い時間、長い影が伸びている
わたしはわたしの影の置き場をまだ探している
淡墨のにじむような夕暮れ
父の背の残影がふいに立ちあがる
触れようとすれば遠ざかる、たましいとはいのちとは、春愁の底
はなびらいちまい舞い落ちるたび、わたしの中の古い痛みがほどける
父の笑みが淡く立ちあがる
声にならない声がわたしの胸を叩く
あれからずっと、あなたに向けるコトバを育てている
たましいは風のように、形を持たず
掌で受け止めようとするけれども
はなびらの薄い色は 父の沈黙と似ている
その静けさにわたしは救われる
コトバを並べてみても父には届かない
それでも春はわたしをこの桜のもとへ連れていく
淡墨桜の空へ声を放つ
父よ
この桜の下で、あなたもわたしもやっとやわらかく息をするのだろう
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東北人なので春の詩といえば宮沢賢治の「春と修羅」を思い出します。四月の光の只中で「おれはひとりの修羅なのだ」と宣言するこの詩は、春の眩しさを拒むのではなく、その美しさを受け取りながら安らげない存在の様態を刻んでいます。喜びと怒りが分離できないまま疾走するリズムこそ、賢治固有の「心象スケッチ」の核心です。
春が来るたびに読み返してみてください。花の眩しさが、少し違って見えるかもしれません。