コトダマ(言霊)とは、古代、ことばにやどると信じられた霊力よね。発せられたことばの中身どおりの状態を実現するちからがあると信じられていた。この信仰は、ことばを積極的に使ってコトダマをはたらかせようとする考えと、ことばの使用をつつしんだり避けたりする考えとの二つの面があるというのね。
言語そのものにコトダマがそなわっているという感覚は、たぶん洋の東西を問わず遍在している。あきこが川柳で推敲に推敲をかさねるのは、時間を置いて読むたびに句が違ってくるからなのね。コトダマとは、神につながるものだという感覚がどうしても意識されてくる。
《さみしいと書いてよけいにさみしくなる》は、森中惠美子先生にかつて番傘本社句会で〈止め〉に採っていただいた句だが、そのとき先生にあきこのコトダマが届いたと思ったのね。
じつは、近ごろ同様の感動をいただいたのは、沖縄で開催された国文祭(美ら島おきなわ文化祭2022)でのこと。真島久美子選「ゆらゆら」で、下記の句を特選に採っていただいたのね。
立ちくらむ独りに水音がしみる
あきこのコトダマをうけとめていただけたのは、いままで尾藤三柳、前田咲二、尾藤川柳、森中惠美子、宮村典子、真島久美子の各氏ほか何人もおられるが、その方々とはどこか通じる同じ血がながれていると思うのね。ちなみに、真島氏の評は
水音とは人間が生きる音に直結している。どんなに哀しい出来事があっても、人は自分の足で起き上がらなければならない。大きく小さく水音を立てながら、それでも前を向こうとする一人の人間の物語を感じる。爪先からしみてゆく「音」が、人間の時間軸を揺らしているのだろう。(真島久美子)