Loading...Loading...

(原文ママ)差出人名は記載いたしません。
… 思い起こせば、私と咲二先生との出会いは、ほんの一瞬だったように思います。
咲二先生は平成29(2017年)9月に逝去されました。最後に瓦版に出席されたのは平成28年11月とお聞きしています。一方、私が初めて出席したのが平成28年5月です。年に3回程度しか句会には参加していませんのでお顔を直接拝見したのは2~3回ぐらいだと思います。懇親会のミュンヘンでもお目にかかっています。でも、直接お話をしたことが無かったのです。今にして思えば非常にもったいないことでした。

それ以前は、川柳マガジンです。咲二先生と三柳先生が時事川柳の選者でした。投句を始めたのは2013年3月号からですが、7か月連続で没でした。2013年10月号でやっと咲二先生から佳作。この時は三柳先生からも佳作を貰いました。それ以後、咲二先生から3回佳作を頂きましたが特選はとれませんでした(他の分野では特選頂きましたが)。
咲二先生の句はマガジンの2013年の3月号に特集されていましたので読んでいました。私がマガジンを購読したその最初の号です(なんたる偶然。そしてその表紙の写真と今度の句集の表紙の写真が同じなのも)。

咲二先生の句の第一印象は「重い句が多いな」と言うことでした。重い句は私の好みなのです。
川柳に「軽み」があるなら「重み」も大切な要素だと思っています。
まさに人生の重みが感じられる句が咲二先生の真骨頂ではないかと思います。これは戦争に青春を捧げた人だからこそ読める句です。もうこんな句を読める人は出て来ないでしょう。もし読む人があれば、それは作った句です。咲二先生の嫌う「頭で作った句」です。

切っ先をいつも自分に向けている
いい句ですね。大好きな句です。
咲二先生は旧海軍の軍人さんです。軍人と言うのは侍です。侍は刀に命を賭けます。刀の切っ先はいつも相手に向けられている‥はずですが、咲二先生は自分に向けていると言います。侍が切っ先を自分に向けるのは、生涯ただ一度、切腹の時だけです。この句に咲二先生の川柳に賭ける気骨を感じます。

靖国で会う約束があるのです
特攻隊の人は皆「靖国で会おう」と言って飛び立ったと言います。悲しいことですが靖国が心の支えで生きていたのは事実だと思います。もちろんそれは戦前の教育が原因だったにせよ、生き残った人が未だにそれを覚えている。重い句です。

八月の死者よたっぷり水を飲め
八月の死者ですから原爆の犠牲者でしょう。「水~水~‥」と言って死んでいったそうです。
この句、いつごろ作られた句か存じ上げませんが、咲二先生は食道がんで亡くなられたと聞いています。
食道がんは食べるのも飲むのも苦しいそうです。ひょっとしたら自分の心境を読まれたのかも知れません。平成29年の1月号に掲載された咲二先生の新年句によく似た句があります。

元旦の鶏よしっかり水を飲め
この句は亡くなられた前年の暮れに読まれた句だと思いますが、死を感じさせる句だと思いました。この鶏がご自分の事ではなかったのかなと思い、干支を調べてみましたら、咲二先生は昭和2年(あきこ註:昭和元年)生まれですから卯年でした。平成29年は酉年ですからこれは素直に鶏のことだったのでしょう。…

前田咲二の川柳と独白 を送って頂きありがとうございました。川柳マガジン2012年3月号柳豪のひとしずく前田咲二特集をあわせて読みました。先生のお元気な時にお会いできていたら…と思いました。
どの句もピカッと光り心に響くものがありますが わたしの好きな句を挙げさせて頂きます。
九条に絆創膏が貼ってある P18
街の断面どこにもにんげんがいない P20
投げ返すことばを一つずつ磨く P29
雑草の花をよろこぶ仏さま P60
美しい嘘も柩に入れてやる p85 …



この投稿を読んで「いいね」「参考になった」と思ったらクリックをお願いします。
なお、Facebook、Twitterなどのアカウントをお持ちの方はそちらをクリック頂き、また、「ひざポン」ボタンもクリックください(ひざポンは無記名ボタンですのでお気軽にクリックください)。

コメントはこちらから

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Post Navigation

Copyright All rights reserved. SHINYOKAN PUBLISHING illustration by Nakaoka.K