地元で活動している「みぶスリーアップ川柳会」は毎月1回句会を開いて楽しんでいる。先月もいつものように宿題の課題吟が二題出されていた。それぞれ二句を出句する。私も句会当日までに合計四句の自作を準備しないといけない。句会が迫ったある日の午後、何かいい句が浮かばないかとメモ帳を片手にいつもの散歩コースへ向かった。
少しずつ春めいてきた川っ縁を漫然と歩きながら、作句のヒント探しに思いを巡らせるが、すぐには何も生まれてこない。ルーティンの1時間程度の散歩で、何がしかの発想がポロっと出てくるまで30分ぐらいは要する。
足の裏の刺激が体の下から少しずつ上に伝わって脳味噌を刺激するのにそれくらいの時間がかかるのである。車のアイドリングみたいなもので、それが済むと脳のどこかにある作句モードのスイッチが入り、作句専用ホルモンの分泌が盛んになってくる(スイッチもホルモンも生理学的に存在するのか頗る怪しいが…)。粗削りでも一句浮かべばすかさずメモ帳に書き留める。そして次の一句へと促される。
散歩しながらの句作りはもう何年も続けている。散歩してヒントや発想が全く浮かばない場合も偶にあるが、歩きながら受ける脳の刺激が衰えてしまうことはない。小径を歩けば刺激をいつも受ける。ホルモンの分泌が枯渇することもない。だからこのスタイルはマンネリ化しそうに思えて、条件反射のような行動パターンとして確立している(少しオーバーな言い方か?)。
足の裏から来る刺激にはぞんざいに扱えない何かが潜んでいると私は考えている。二足歩行になった太古の人類は地球の隅々まで歩いて行くことを憶えようだが、これに関連して、Wikipediaに「現生人類の拡散」という項目があり、以下のようなことが書かれている。
[ホモ・サピエンスが誕生し、移動を始めたのはおおよそ30万年前であるといわれている。アフリカ単一起源説では、おおよそ7万年前から5万年前に東アフリカを発ったホモ・サピエンスが現世人類の祖であるとされており、現生人類がアフリカを出てアジア南沿岸経由で近オセアニア地域への移動を始めたのがおおよそ7万年から5万年前とされており、約4万年前までにヨーロッパ中に分散した。
ただし、それ以前にもアフリカを出たホモ・サピエンスが存在する。イスラエルから19万4千年–17万7千年前のホモ・サピエンスの化石、ギリシャから約21万年前のホモ・サピエンスの化石が見つかっているが、いずれもそれ以前に定住していたネアンデルタール人(旧人類)との生存競争に敗れたと考えられている。
現生人類と旧人類の混血によって、われわれ現生人類のゲノムにネアンデルタール人の遺伝子が数パーセント混入しているとされる。
最終氷期極大期以降、古北アジア人はベーリング地峡を渡り、約2万年前に人類はアメリカ大陸に到達した。完新世に入ると、人類は北ユーラシア(1.2万年前)やグリーンランドやカナダの北極圏地域(4千年前)といった極圏にも定住し始めた。そして、ポリネシアにオーストロネシア人が人類として初めて到達したのは1千年紀のことである]
この説明を読みながら、ホモサピエンスとして誕生した当初は裸足で生活していたであろう人類が、靴とか草履みたいなものを履き始めたのはいつ頃からなのか気になりだした。Copilotにそのことを尋ねたら「靴の起源は約4万年前に遡り、初期の靴は動物の皮や植物繊維で作られ、足を保護するために使用されていました」とのことである。確かな根拠はないのだが、靴が発明されて使用されるようになっても、人類の拡散はほとんど裸足で行われていたのではないか。私は勝手にそのような推論を立てている。歩き回っている人類が長持ちするような靴を履いていたとは到底思えないからである。
裸足と靴を履いた時では、地面からの感触と刺激がかなり異なる。海へ行って砂浜で裸足になることは実に気持ちがいい。砂地でも直接足の裏が接すれば、それなりの刺激がある。だから無性に駆け回ったり、燥いだりしたくなるのか。凸凹した地面に接して、土踏まずが何かに直接当たる感触も心地よいものがある。
幼稚園や保育園で裸足の生活に取り組んでいるところがある。子供が裸足になると、衛生面のことや怪我の心配などのデメリットを挙げる意見も出てくるが、足裏の感覚が鋭くなり、メンタル面でも靴を履かないことによる解放感がリラックス効果をもたらすだろう。
また、足の裏は第二の心臓などとも言われている。足の裏の心臓的機能が医学的に解明されているようである。脳への刺激についての研究も進んでいるようだが、句作りという創作活動の面ではどのような仕組みで脳への効果が出ているのか。散歩しながらの作句も裸足で歩けば、地面からもっとたくさんの刺激を受けて佳句がどんどん詠めてくるのだろうか。これは妄想に近いものである。実践は到底無理か。
この裸足スタイルの妄想をさらに広げてみる。確かな学問的な根拠はないが、人類が裸足で東アフリカから世界の隅々へ歩いて拡散して行ったとした場合、その間に足の裏からの刺激で飛躍的に知能が発達したのではないかと、私は考えた。文明化して履物を使うようになってから、その発達の速度が緩やかになったのではないか。
子供を裸足で生活させる功罪は先ほど言及したが、大人の場合、裸足で歩けるような場所を広めていけば、現代人は案外もっとお利口さんになるのかもしれない。刺激と解放感でつまらぬ啀(いが)み合いや諍いも減るかもしれない。街中をスーツ姿で忙しく歩くビジネスマンも裸足で歩けば精神的な余裕が生まれるだろうか。鋭利なものを踏んだり、強くて重たい物に踏まれなければ、メンタル面も開放状態に近くなって、いい閃きや考えが生まれるかもしれない。特に夏の頃が最適だろう。過日の散歩では、私の脳味噌の中でそんな妄想も暴走するようにどんどん湧いていた。
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