「ルサンチマン」という言葉に出合ったのは大学生の頃だった。現在ネットで調べるとこう記されている(weblio辞書「新語時事用語辞典」から引用、下線の表記は省略)。
ルサンチマンとは、弱者が強者に対して抱く「恨み」や「嫉妬心」のこと。日本語では「怨恨」と訳されることも多い。ドイツの哲学者ニーチェ(Friedrich Neitzsche)の道徳哲学を特徴づける重要なキーワードのひとつとして知られる。
なお、ルサンチマン(ressentiment)という語そのものはフランス語である。
ルサンチマンは、社会的な弱者・被支配者が抱く、強者・支配者に対する怒りや憎悪、嫉妬などの感情である。ニーチェはルサンチマンを「弱者側の道徳観」と捉えた。弱者は強者に対する憤りを行動に移せない。そのため弱者は、想像の中で復讐心を膨らませて心を慰めるのだいう。
ニーチェは「道徳の系譜」(1887年)においてルサンチマンの概念を提唱した。ただし、ルサンチマンの「弱者の強者による嫉みが道徳観となる」という構造は、必ずしもニーチェによる空前の発明というわけではない。デンマークの思想家キルケゴール(Søren Kierkegaard)は1846年に「En literair Anmeldelse」(抄訳の邦題は「現代の批判」)において、当代における道徳観を「嫉み〔嫉妬〕」であると看破している。
キルケゴールはこの「嫉み」に基づく道徳観を、強者の足手まといになる道徳観として、強者側の視点から示した。ニーチェは逆に弱者の視点から捉え、そして「ルサンチマン」という用語を与え、この概念を定義したのである。
ニーチェは、当時の西欧文化において絶対的な価値基準であったキリスト教的道徳観に対して懐疑的であった。キリスト教の起源は、ユダヤ人の、かつて虐げてきたローマ人に対するルサンチマンが根底にあるという。強者たるローマ人により虐げられ、貧しく不幸な生活をしている自分達ユダヤ人は、貧しく不幸であり、だからこそ幸いなのだ、貧しい人にこそ神の国が開かれているのだ、という考え方がキリスト教の根底にあるとニーチェは捉えた。
ニーチェはいわゆる実存哲学の先駆者として知られ、今日もなお大きな影響を与え続けている。「ルサンチマン」の概念もまた、今日でも世間道徳を俯瞰する手がかりとして価値を保ち続けている。
例えば、有名人のゴシップ・醜聞・スキャンダルの類に(直接的には無関係なはずの)人々が過剰なまでに反応して大騒ぎするのも、ルサンチマンの感情が根底にあるためと考えれば腑に落ちる。自分より恵まれている有名人に対する嫉妬心、憎悪、復讐心。これが自分と同じ境遇の、自分と同じルサンチマンを抱いた人々と、ひそかに一致団結した場合、大きな炎上騒ぎとなることも少なくない。
こうした感情の機微を、ニーチェは人間の本質であるとし、批判せずむしろ肯定的にとらえている。(以下省略)
長い引用になったが、当時20歳そこそこの年齢であった私は、インパクトのあるこの概念に出合って心に深く刻み込まれた。自由、平等、平和を目指す今の国際社会に通底する一般的な感情には相容れないところがあるかもしれないが、だからこそこういう概念がかつて思想として説かれた歴史を振り返ることも大切が気がしている。
いろいろな意味で薄っぺらな価値観や道徳規範で物事の是非が判断されている情報化社会の風潮を眺めていると、いつの間にか息苦しさを感じながら生活していることが自覚されてくる。薄っぺらに対抗する概念や考え方が潜在的にでも存在するということだけは認識しておくべきだろう。その認識は心のゆとりにもつながる。
価値観は変わる。
世間の価値観がどのように変わるかは誰にも分からない。
でも、自分の価値観が変わらなくてもよい「自由」さえ保障されればそれで良し。
究極は、各個人は「自由」と「安心」を追求している。