2022年1月9日付けのブログで「句読点について 」を書いた。文章を書き進める上で、句読点の取扱いは主観的なところがあるので、文法的なルールを明快に論じることの難しさを説いたつもりである。
その後、「マルハラ」という言葉が生まれて話題になった。2024年1月28日に放送されたAbemaTVの番組『ABEMA的ニュースショー』で初めて紹介され、メディアによって広まった。SNSやチャットで文末に句点を付けることに対して、若い世代が威圧感や冷淡さを感じる現象を指している。若い世代はワンフレーズのやり取りに慣れているため、改めて句点が付いたメッセージを送られると「怒っている」などと誤解することが多いらしい。
この新語(おそらく長くは定着しない流行語程度になると私は思っているが)とその話題に接して、今時の若者はなんてナイーブなのだと感じた。偏屈ジジイの私からみれば、そんなことを論うのではなく、もっとまともな文章を書けるように精進しろと言いたくなった。
言葉には口語(話し言葉)と文語(書き言葉)の二つがあり、歴史的にはおそらく口語が生まれてからかなりの長い時間が経過して、それから文語が生まれたのだろう。当たり前のことだが、人類史には文字の無い歴史がしばらくあったということである。文字が無ければ、とにかく頭で記憶するほかはない。だからその能力の程度で人は評価されていたのではないか。記憶力のあまりないタイプは生きていくうえで不利であったと考えられる。
ものを書くことを覚えると日常生活は便利になるが、口語をそのままそっくり文語にすることは不可能である。口語と文語のスピード感は全然違う。音声を100%忠実に何かの紙へ書き記すことには限界がある。そうすると口語の世界と文語が別次元のものとして並行していくこととなる。交わることがことがあっても一つに融合されることはない。
人の話しを聞いていて、なんて諄いのだろうと感じることが頻々にある。一方的な話しを聞く場合でも会話のやりとりでも、人は何につけ諄くて長ったらしいものの言い方をする。手を動かして書くより、口から声に出す方が楽に出来るから、何かを伝えようとすると饒舌になりやすい。
ペンを握ってものを書く、あるいは指先でキーを打つのは、口を動かすよりも神経を使い手間がかかる。だから、他人の発言を書き記す場合は要約されることが多い。口述筆記などというが、完璧に筆録されたら言葉の諄さがかえって邪魔になるだろう。ある程度要約されて文語に変換されていた方が読みやすい。
言葉表現の世界とその意思疎通の方法は口語と文語の二重構造で成り立っている。これをうまく使い分けして言葉の文化は展開していったと言える。
さらにネット社会が登場して、SNSが当たり前のツールとして使われるようになると、そこから発信されるものは文語なのか口語なのか、そのハイブリッドなのか、その境界が曖昧になってくる。スマホの画面を操作して文字入力しながら、口語の世界に準じた声のない会話のやりとりをする。文字でお喋りしているようなものである。
実際の話し言葉というのは文法的に間違ったもの、用語として不自然なものが実に多い。それでも会話や伝達がそれなりに成立しているのは、それぞれの場面において、言いたいことを確実に伝えようとして言葉づかいが諄くなっているからである。トートロジカルなものや重言など、繰り返しの諄さが間違いと不自然さを補正しているところもある。
テレビやラジオのアナウンサーは原稿があるから正しい言葉で話せる。バラエティー番組は事前に打ち合せているからタレントはうまいネタを披露できる。放送というものは予定調和的に完結する世界だから(生放送番組もあり、想定外のことも偶に起きるが)、滑らかに話してすんなりと耳に入るようにできている。AIアナウンサーならさらにパーフェクトな話し方になる。
しかし予定調和的な話し方では味気なく思う時がある。政治家の街頭演説などが典型だろうか。もっともらしい言葉を散りばめながら理路整然と訴える。聞きながら、うまく話しているなあと感心するが、後になって思い返すと何も残っていないことに気がつく。メリハリを付けて情に訴えるように話すから聞き惚れているが、実は大したことは言っていない。絵空事みたいなことを語りかけていただけということが判ってくる場合もある。
言葉の使い方が変だったり、文法的にはおかしくなった文脈でも、朴訥としたものの言い方(方言なども含めて)にかえって心がこもっていると感じることが多々ある。それは話し方と話しの内容に飾り気がなく正直に聞き取れるからである。高齢者がテレビで何かのインタビューを受けた際にそんな光景に出遭うことがある。
それを文語としてそのまま書き記すと分かりづらくなる。読んでいて染み入ることもない。耳から入る飾り気のなさ、素直さが文面から削がれて伝わらなくなっているからだろう。
SNSが普及して進展していくと、口語と文語の二重構造に変化が表れた。文語の中に口語的な言い方を取り込んだものの勢いが増してくる。そうすると、句読点という記号は面倒な代物に成り下がる。口語の世界には、句読点のような決まり事はない。話し方の抑揚と間(ま)だけのメリハリしかない。それで通用している。
その抑揚や間が読点に相当するのか句点に相当するのか、あるいはその中間なのかは話しの流れの中で判明されることとなる。そんなお喋りみたいな話しの内容をSNSの画面に文字起こししようとすると限界が生じる。作文する上で使われる句読点を含めた記号は、画面に落とし込んで使い分けしようとしても無理が生じる。やろうとすれば面倒くさく感じるだけだろう。
ならばそんなものは使わない方がよい。少なくとも読点は一切なし。句点も付けずその代わりにスペースぐらいの区切りなら設ける。読み手に対してこの程度の配慮をしておけば、口語的な怪しい文語でも何とか誤解されず、勘違いされずに理解してもらえることができるだろう。
さて、口語におけるセンテンスの冗長さについてかねがね思っていたことを記したい。繰り返すが、大方の人は諄くものを話す。簡潔に話す人は少ない。いや、いろいろと話したい思いが膨らんでいると、子供でも大人でもそもそも饒舌になって冗長に話したがるものである。だから、センテンスの観点から考察すると、長々と単語を並べ続けて、最後にようやく区切り(用言の終止形や終助詞、終わりの助動詞など)を付けるような語り口になる。短く言い切ることをしたがらない。
高校時代の古典の授業で源氏物語などの文語体を散々読まされたが、振り返ってみると、大体の古典文学の作品というものは、一つの文が実に長ったらしく出来ている。当時の私は文法的な構造や敬語表現の複雑さを試験問題に出されて辟易したものだったが、考えてみると、あの長ったらしさは口語的なものだったのではないかと今更思いついた。よくは承知していないが、くずし字やつづけ字の連綿ですらすらと書かれている文語体の文章は、口語的な感覚で作者は筆を運んでいたのではないか。
複雑に構成されていて現代人には読みづらい古典の原文に対して、当時の人たちはあまりそうは思わず読んで楽しんでいたのではないか。それは口語的な感覚で読み進めていくからそうだったのだろう。今の若者のSNSの読み方と似たようなところがありそうである。古典の原文には句読点やカギかっこなどの記号は一切ない。これは若者がやっているSNSと期せずして同じではないか(SNSの方は絵文字が多用されているが)。はたとその偶然に気がついた次第なのである。
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読点はウンだが句点はウンウン は団扇の旧作です 朗読の名手は 読点で間を取り 句点で間を置かず 息もつかずに読む場合があります 書く場合 読点の場所は 迷いますね