先日、録画していた「NHK短歌」をいつものように視聴していたら「自己模倣」という言葉に出遭った。初耳である。ネットのweblio辞書では、概ね以下のとおりに解説されていた。
かつての自分自身を指針にして真似るようなやり方をさす言い方。創作活動において、過去に生み出した創作物と同じ手法や理念に基づいて新作を生み出すようなことが典型的な自己模倣の例と言える。
自己模倣は「過去の自分の模倣」であり、その意味では過去の作品の焼き直しである。そうした否定的な意味合いで捉えられることが多い。ただし、人は多かれ少なかれ過去の自分を規範として引き継いでおり、自己模倣そのものが否定されるものではない。過去を見つめ直し自己の根本・根源を確認する試みとして(肯定的かつ積極的に)自己模倣が行われる場合もある。
さて、この番組にゲスト出演していた著名な歌人も自己模倣をあまり否定していなかった。むしろ肯定的な考え方も示していた。ネットでさらに検索すると岡本太郎がそういった考え方を完全否定している言葉に出合った。さすが前衛芸術家らしい発言を残していたのである。前衛芸術とは、既成の概念や形式を打ち破り、常に先駆的・実験的な表現を試みようとする創作であることに鑑みれば、これは当たり前だろうか。他方、短詩型文芸の世界では、詠むという日々の活動の中で自己模倣を完全にシャットアウトすることはそもそも無理なのではないか。
2024年4月21日 に「使い回し川柳、焼き直し川柳」を書き、大会などへの出句や投句に際して平気で自作の使い回しをする輩がいることを嘆いてみせた。過去に入選した作品を使い回しすることはもちろんご法度であるが、十七音のどこかを弄って焼き直したものであってもあまり褒められたものではないだろう。
しかし句を詠み続けるうえで、自分という人間は時系列として途切れなく存在し続けてきたのだから、自分が生きてきた過去があって現在の自分があり、その現在からさらに未来へ自分が続くことも確かなことである。自分の過去のすべてを抹消することは出来ない。完全否定することも無理である。厳然と存在する自分の過去を振り返れば、そこから生まれてくる句作の題材はいくらでも出てくる。過去とその作品の上に川柳作家としての今の自分が成立している訳である。それを踏まえれば、自己を模倣することはやはり自然な態度であると言えよう。これはweblio辞書の説明にある後段の肯定論のとおりである。
現在の私は句集発行のための選句作業を続けているが、過去30数年間の自作全部を眺めて、何と自己模倣した作品(聞こえはいいが「焼き直し」のことである)の多いことかとため息が漏れた。
自己模倣には、正直に言えば提出締切日を前に行き詰まって焼き直しものも多いが、ちょっと別の切り口から詠み直してみようかと試みたものもかなりある。視点や着想を少し動かしたバリエーションの作品である。これらはそれなりに満足して出来上がったものだと自分なりに思い返している。
人間の発想力・想像力には限界がある。誰でも前衛の塊である岡本太郎のようになれる訳ではない。発想を広げようと自分の心の奥を前へ前へと突き進んで行く。いい発想の材料がなかなか発見できない。ようやく見つけても、これは既に使っていたものだと判明してがっかりすることも多々ある。そんな苦労をしながらも、滅多に出て来ない題材がひょいと現れ、そこからスパークした着想がすんなりと五七五にはめ込まれて詠めれば、作句後の自己満足感を糧にして飽きることなく川柳と付き合い続けられるというものである。
という訳で、私の編集担当のTさん、句集発行のための作業は亀より遅い歩みでありますが、この場をお借りしまして、それなりに進めていることを改めてご報告申し上げます(ほとんど弁明に近い(笑))。
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