2020年12月31日に「介護もどき 」、2021年1月17日に「座席を譲られる! 」、2021年9月21日に「優しくされると悲しくなる」、2022年12月12日に「健康寿命について」など、高齢化社会の現実と自分に関わることを懲りることもなく書いてきた。これらに付け加えることになるが、今回は年寄りにあまり優しくしないでほしいということを論じてみたい。まっ、相変わらず私のへそ曲がりの考え方を披露するだけのことになるが、とりあえず読み進めていただければ幸い至極でございます(笑)。
だいぶ前のことになるが、亡母がまだ80代前半で元気だった頃、外孫娘の一人(既に成人してい私の姪)が、おばあちゃん孝行で秋の京都旅行へ連れて行ってやりたいと提案してきた。私の娘が京都の大学の4回生で卒業も近づいてくるので、それまでに3人一緒で市内を観光するという企画である。行き帰りは新幹線を使う1泊2日の行程になる。現地で娘と落ち合い、有名な神社仏閣のいくつかをタクシー貸切りで回るというものだった。
2日間の小旅行は天気にも恵まれ、何とか無事に予定どおり行動することができた。私は万一に備えて自宅待機みたいなことをしていたが、世話をしてくれた姪と娘には感謝している。
その後、正月に身内が集まったところで京都旅行の思い出話に花が咲き、私も改めてその話しを楽しく聞かせてもらった。でも一つだけ興醒めすることがあったという。3人全員が同じ思いだった。一日貸し切ったタクシーの運転手さんのことである。
丁寧な応対をずっとしてもらって車中も楽しい会話ができたようだったが、ある超有名なお寺に着いた時、運転手さんは自分の判断で優先者駐車場に停め、さらにお寺で常備している無料貸出し用の車椅子まで持って来たという。老母のためにわざわざそんな心遣いをしてくれたのである。
老母はまだちゃんと歩けるのでそういう対応は不要だったが、厚意を無下にする訳にもいかず仕方なくそれに乗ってお寺を拝観したという。運転手さんとしては、おそらく会社のサービスマニュアルに基づいてそのように振る舞ってくれたのだろう。決して悪くは言えない。しかし3人とも少し気まずく感じたらしい。本人の意向を確認せず配慮し過ぎたのである。
アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)という言葉がある。教育や経験、社会的影響によって無意識に形成される偏りをさす。そして、自分では正しいと思っているこの偏りが他人への言動に悪い影響を及ぼし、相手の心を傷つかせる行為をマイクロアグレッション(些細な攻撃)という。日常会話や職場での軽い発言、会議での提案などで、性別、国籍、職業、家族構成、障害の有無などから勝手に思い込んでいた偏りから出てくる、(結果的に)攻撃的と受け取られる言動である。
偏見は良くないことなのだが、人間心理にはどうしても偏りが生まれてしまう。それは誤った思い込みにもつながるものである。自分の心の中をいつも平らにすることは不可能である。世の中の格差がなかなか解消されないのと同じように、建前論でダイバーシティーやマイノリティーをいくら論じても、それらが全く意識されない社会を目指すことは難しく、理想に近い話しとなる。
耳の聞こえない方に、日常生活が不自由ですねと語りかけること自体もアンコンシャスバイアスになる場合があるという。決して悪気などなくても、当人の意思とはかけ離れた思い込みをしてしまうと相手を不快にさせかねない。
翼を持たない人間に対して、大空を自由に飛び回る鳥たちから、それは不自由な生き方ですねと同情されたら、もともと人間は空を飛びたいと思ってもいないのだから、そんな不自由を考えたことはないと誰もが答えることだろう。しかし鳥たちにも悪意はない同情である。
耳が聞こえない不自由、空が飛べない不自由のそれぞれの不自由さは主観的なもの、意識の問題なのである。当たり前に送っている日々の暮らしには、そもそも根源的な不自由などというものは存在しない。立場が違うから見方によって不自由に感じられるだけなのである。
しかしこういう考え方は頭で理解できても、日々の言動は主観に基づいているものがほとんどであるから、やはり自分本位的に考えたがる。だから、どうしてもこういった不用意と言われかねない発言をしてしまう。
忖度などという言葉も両刃の剣である。忖度したことが結果的に上手くいくこともあるが、それが外れたら目も当てられない事態を招く。贔屓の引き倒しという慣用句も同じである。贔屓にされて嬉しいこともあるが、贔屓のすべてがそういうものとは限らない。
「『おもてなし』なんて…」(2024年9月27日)で、日本のおもてなし文化を批判的に書いた。おもてなしと忖度や贔屓は似ているところがある。おもてなし、ご配慮、ご厚意が場合によって迷惑に感じられることはよく目にする。
年寄りに優しくするのも程度問題なのである。歩けるのに車椅子を持って来たり、立っていられるのに椅子を用意されたりと、そんな余計なことをされる有難迷惑は、日常的によく起きるものである。
そうならば、親切は無用であることを説明してその配慮や厚意をきちんと断ればいいではないか。しかし気まずい雰囲気になるのではないかということも恐れる。断るというのも実に厄介なものであることを思い知る。
お若いですね、などと声をかけられても、当人がいつも若いつもりでいるなら、少しも褒め言葉にはなっていない。もちろん嬉しく思う年寄りもいるだろう。しかし、そもそも別に褒めてもらいたいと思っていないところを褒められても、何も有り難く感じないのではないか。
まっ、いろいろと難しい世の中になったが、優しくしてほしいと思うことをその望みどおりに優しくされたら、それが本当に年寄りに対して優しい社会なのだろう。まっ、そんな社会の実現を願うことは見果てぬ夢を見るようなものかもしれない。
超高齢化社会の優しさには主観のすれ違いの影がずっと付きまとうことだろう。何につけ親切心を見せることが当たり前とみなされ、それに溢れていく傾向がますます強まる。しかし年寄りにもいろいろな人間がいる。いろいろな気持ちや意向になるべく沿ってお付き合いしていただきたいと、年寄りの一人である私は常々思っている。
アンコンシャスバイアスもマイクロアグレッションも単純な心理構造のものではない。ダイバーシティやマイノリティーの問題だって突き詰めていけばさほど簡単なものではない。福祉的なことを考察していくとややこしいものばかりである。世の中が暮らしやすくなったように見えても、人と人との関係は相変わらず込み入ったことに満ちている。
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