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 「思う」と「考える」はどう違うのだろう。国語辞典、類語辞典、漢和辞典(「思」と「考」)、英和辞典(think)、仏和辞典(penser)、独和辞典(denken)などを繙いたが、素人なりに結論づけると、前者は漠然としてかつ情緒的に使われ、後者は前者より論理性と理屈っぽさがあるようである。そんな感じで使い分けられているのがこの二つの言葉の実態と言えるだろうか。そうなると「思考する」は両者を合わせた意味かというと、そうではなく後者とほとんど同義のように解釈できる。
 学生時代に平凡社の哲学事典というかなり分厚い本を買った。哲学専攻だったので、これくらいは自分でも持っておいた方がいいと考えたからである。大学を卒業してからは、かさばるのでさっさと古本屋へ売って処分してしまったが、今でも朧気に憶えていることがある。
 デカルトの有名な言葉「我思う、故に我在り」の「思」がこの事典の項目では「考」になっていて、つまり「我考う、故に我在り」と表記されていた。要するにこの場合の「おもう」は、単に「思う」のではなく理屈っぽく「考える」というのが本来の意味であり、その意味合いを強調したくてわざわざそう表記したのだと私には理解された。「思う」と「考える」は、哲学的には厳然と区別されているということらしい。
 しかし現実の会話や文章表現で、この二つは明確に区別されて使われているだろうか。かなり疑問である。
 日本人は何につけ文末に「思う」を付けたがる。「思う」で表現を終わらせて断定的なニュアンスを緩和させるようなことをする。これが外国人には奇異に感じられるようである。確かに、日本語のように頻繁に「思う(think)」を使用した英語の文章にはお目にかかったことがない。
 客観的な事実であるのは明白なのに、「思う」、「思います」という文末表現を使って言明的に受け取られることをなるべく避けようとする。断定してしまって相手に後々言葉尻を捉えられないように逃げ道として使う場合もある。なるようになると考えたがる日本の自動詞的(be動詞)文化と何事も客観的に解決したがる西洋の他動詞的(do動詞)文化の違いもあるようである。
 「これから新年会を開催したいと思います」などと、確実に実行されることが決まっているのにわざわざこういう言い回しを使う日本語の世界は、日本人の精神風土から生まれたものである。そう理解すれば不自然に思われないだろうか。
 「思う」は何でもありの言葉。実際にそう思う、そう感じる、そう解釈できる、そう判断できる、などなど何にでも使える重宝な文末表現なのである。「考える」などという言葉を使うのは西洋的で堅苦しく野暮ったいものなのかもしれない。
 なお、さきほどの哲学事典の話しは、50年近く前のことなので私の記憶違いである可能性もある。もしそうだったら許していただきい。

 



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