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 『歎異抄』と川柳は、「人間の弱さを見つめ、その弱さを言葉のちからで救(掬)う」という点で似ている。この共鳴は、表現が違っても鮮やかに浮かびあがる。

 『歎異抄』は親鸞の言葉を弟子・唯円が記した書。核心にあるのは人間の煩悩・弱さ・矛盾を直視する姿勢。『歎異抄』が見つめた「どうしようもない人間」について言えば、「人は善人であろうとしてもなれない」「欲や迷いは消えない」と。それでも救われる道があるという、弱さの肯定なのだ。『歎異抄』は宗教書でありながらきわめて人間的、むしろ文学的な響きを内包している。

 川柳は俳句と違い、季語も自然詠も要らない。人間の可笑しさ・愚かさ・矛盾を詠むことに本領がある。川柳が見つめる「滑稽で悲しい人間」は、宗教ではなくどちらかといえば笑いの形式で人間の本質を突いている。川柳の、弱さを「切り捨てず、見つめる」姿勢、ここに両者の接点があるのではないか。

 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

 上記は、『歎異抄』の有名な一節。「善人でさえ往生できるのだから、まして悪人ならなおさら救われる」というのだが、丁寧に言い換えると、「善い行いを積んだ人でも救われるのだから、煩悩まみれの悪人は、むしろ阿弥陀仏の救いの対象としていっそう確かに救われる」。ここでの「悪人」は道徳的な悪人ではなく、 自分の弱さ・煩悩・どうしようもなさを自覚している人間を指す。逆に「善人」は、 自分の力で善を積めると思い込んでいる人間のこと。「立派な人でも救われるのだから、弱さを抱えたままの人はなおさら救われる」、これが『歎異抄』の核心である。

 人間の矛盾を肯定するという点で、どちらも「弱さを抱えたままの人間」を見捨てない。『歎異抄』は短い章句で核心を突き、川柳は五七五で真実を射抜く。いうなら形式の簡潔さが本質を照らしだすということだろうか。どちらも、余白が本質を語る。

 『歎異抄』は、いわゆる修行などではなく「凡夫のまま」での救いを説く。 川柳は、日常のささいな行動の中に人間の真実を見つける。日常の中に救い(あるいは真理)を見いだすということだろう。相違点は、『歎異抄』は宗教的救済を示すが、川柳は救いではなく、ただ「見つめる」だけのことが多い。しかし、弱さを直視するという行為自体が、すでに救いの一歩であるという点で、両者は近い。

 『歎異抄』は宗教書でありながら、 川柳は喜怒哀楽の詩でありながら、 どちらも人間の弱さを見つめることで人間を肯定する。形式は違うが、根底に流れるものは近い。

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