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神道(しんとう、しんどう[1])は、日本宗教惟神道(かんながらのみち)ともいう。教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話八百万の神自然自然現象などにもとづくアニミズム的・祖霊崇拝的な民族宗教である[2]。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた[3]。(Wikipedia)

 わたしは、どんな宗教にでものめり込むということがない。日本人の七割が自身を無宗教と答えるというが、わたしもそれに近い。なんどか新興宗教に誘われたこともあったが、すべてお断りしている。なにかが違うと。直感的なものだろう。

 伊勢神宮にはここ数年なんども行っているが、吟行である。この地に足を運んだおびただしい父祖たちの影に影をかさねたい、そういう気持ちで歩いているのである。宇治橋から見る五十鈴川の清流には、いつもこころが洗われる。しかし信仰かと問われると、違う。一歩も二歩も、退く。神道はそもそも多神教であり、一神教のように拘らない。わたしのこの感覚がふつうの日本人であるような気もしないではない

 いま少々関心のあるのは、古神道。江戸時代の国学によって、儒教や仏教からの影響を受ける前の神道が仮構された。復古神道・古道・皇学・本教などとも称されたようだ。近代以降の学問で研究され、国学色を排除してからは、純神道・原始神道とも言うらしい。

 神道の起源は古く、日本の風土や生活習慣に基づき、自然に生じた神観念である。まず開祖が存在しない。神道という名称については、「かんながらの道(神道)」という意味をもっている。日本における神道ということばの初見は『日本書紀』の用明天皇紀。「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」とある。外来の仏教と対になる、日本固有の信仰を指したものだった。

 神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強い。気象や地理地形など自然現象に始まり、あらゆる事象に神の存在を認める。いわゆる八百万の神々。日本人にとって神は身近な存在だった。日本にはいろいろな宗教が共存している。神道と仏教は、年月を経てたがいに影響しあって生活に溶け込んでいる。ところがたとえば一神教であるキリスト教徒にすれば、カミもホトケも同一に拝んでいるのは、理解できない。神道には包容性があり、客人(まれびと)を大切にする。異文化との接触による文化変容を可能にする素地があるのである。

 神道の現代における存在意義はなにか。神道が教える普遍的なものは、聖なる世界へ通ずる道はこの世に見いだされるという考えである。伊勢神宮の形態が我われに教えてくれるのは、ありのままの姿の自然と直接結びついたシンプルな中の荘厳。

 神道が求めるものは、自然とともに生き、祖先のこころを己のこころとし、自然と調和して生きること。伝統を尊重することによって精神的な支えを得、また人と人とをつなぐ絆を大切にする中でよりよい生き方を見いだすことができるのだと教える。

 科学の進歩の結果、世界は大きく発展を遂げ、その進展は世界中で止まることなく続いている。この発展は同時に地球の自然環境の破壊を意味し、その危機はますます深まりつつある。この地球的危機に急いで対処しなければならない。自然と人間との関係を見直し、積み上げて来た人類の知恵を活用して破滅への行進を止めなければならない。

 日本人の自然観は、畏敬の念をもって神々の世界としての山や森や海に接することだった。自然を征服すべき敵としてではなく、慎みをもって接すべき聖なる空間として見たのである。

 神道の性格は包括的であり、人々の様々な洞察や能力を調和させる可能性を示していると言える。神道は、そうした意味で世界的レベルにおいて受け入れられる普遍的な要素をもっている。神道の内包する「和」の精神で混迷する世界を変えていくことはできないものだろうか。それが時に適うということである



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