川柳に何を詠むかと問われれば、喜怒哀楽の中のまず「哀」と答える。人間存在そのものが「哀」。人間に与えられた感情の何を詠んでもよいわけであるが、「哀」の他はどう詠んでも作品が浅くなる。ただ「喜」も「怒」も、通底するものが「哀」(ペーソス)であれば、こころを揺さぶる句となり得る。句を深く詠むとは、人間存在の根幹に触れる、まずそういうことかと。
句を深く詠むためには、深く生きなければならない。いま自身のいる位置を深く抉ること。僅かに知っている(と思える)場所を深く掘り下げることである。悲しみなら悲しみを、怒りなら怒りを反芻し味わい切ることによって、思惟(しい)を深める。
関係がないことのようだが、私は若い頃からほとんど化粧というものをしてこなかった。いまは口紅もやめて、僅かにアイブローペンシルで眉を整える。少々の白髪が気になるので、ヘアダイはしている。ほかは、化粧水も乳液も煩わしい。何も付けなければ付けないでいられるものなのである。(いまの私にとっては)自身を飾ることは最小限でよい。周囲に不快感を与えないため、それだけ。
川柳行脚は私からすべて余分なものを剥がし、どんどん素(す)になることを迫っているかのようだ。句のチカラとは、素のこころから相手のこころに訴えかけていくもの。いつも素顔でいる、ということの理由の一つはそこにある。句を研ぎ、自らも研いでゆく。
旅ひとりどんどん水になってゆく (たむらあきこ川柳集 2010年より)
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