吟行に出て、〈にんげん〉に触れ〈にんげん〉の関わる景色に触れ観察し、さらにその場の自分のこころと向き合い、数十句に収斂させようとする中で〈いのち〉が弾んでくる。吟行が終われば、疲れの中にも気分はすがすがしい。句を詠むという自己表現を通してこころが解放され、さらに感性が研ぎ澄まされてゆくのだ。思わぬ他者や自分を発見できるのも、吟行ならでは。
〈いのち〉とは、〈(与えられた)時間〉と言い換えてもよいかもしれない。わたしにとって人生をたいせつに生きるとは、時間をたいせつにすること。人生は有限であり、しかも終末はいつ来るか分からない。茫々と草の生い茂る荒野を歩いているようなものなのだ。よく言われるように旅に似ている。というより、旅そのもの。 同じところに長くはとどまらない。昨日から今日、今日から明日へと、時の流れは粛々とわたしを運んでいく。晴れの日ばかりではなく、曇天もあれば嵐の日もある。どん底に突き落とされることもある。わたしたちは日々どこへ向かって歩いているのか。
長く「孤独死」が社会問題化している。肉親や友人に恵まれていても、寂しいとふかく感じる人がいる。社会的政策だけでは埋められぬこころの空洞が、わたしたちにはある。ブッダは、「独生独死 独去独来(独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る)」と経典に説いている。〈たましい〉の響き合える相手がいないので寂しく感じるのである。たとえ親友でも、何一つ隠さずに心中をさらけ出すことができるだろうか。こころの奥底をよくよく見ると、誰しも深い孤独(荒野)を抱えているのである。
この孤独の根本的解決が、生きる意味と言ってもよいほど。しかし、現実には一人一人の本心を他人がのぞき見ることはできない。それどころか、自身でも自身を知りえないと感じることもあるだろう。この、いかんともしがたい寂寥をむしろふかく感じようとすることこそが、じつは人生を意味あるものにするのではないか。吟行も、群れていてはできない。せっかくの非日常に触発されながらふかく自身の中に沈潜し、自分を見つめ自分の中の〈にんげん〉の声を聴くことがたいせつなのだ。その中からしか他人のこころに届くような句はうまれてこないだろう。
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