〈衝動〉は心をつきうごかすこと。なにがわたしに川柳を詠ませるのか。わたしたちの心にはいろいろな部分が存在し、ふだんはその多くが隠れている。これまでの人生で経験したことによる悲しみ怒りなどをまったく忘れてしまっているわけではない。また学習したさまざまが蓄積されている。
日常生活をふつうに送っている分には、それらが顔をださないことも多い。それで不自由もない。そのため多くの部分は眠ったまま、なかばは自分自身からもその存在が忘れられているかもしれない。しかしその中には、表現にとってたいせつな部分が残されているのである。
たまたま立ち寄った古本屋でかつて愛読した本を発見、その頃の自分に再会できたような気がしたことがある。忘れていた部分を発見できるのは、そんなとき。たいせつな部分との再会をそのように偶然に任せるのではなく意図的に引き寄せてみる、それが私にとって句会やドトールで川柳をよむという行為なのである。
句を生みだそうとする、ただそのことによってたいせつな何かと再会できる。川柳でなくても、絵画でも音楽でもおなじことだろう。試行錯誤しながらまとまりのある一つのかたちに完成させようとする過程で、おのずから自分の中にある何か(ふだんは潜在意識として隠れている)に光があたり、外界にでてくるのである。
もちろん一つや二つの川柳の連作に、自分の中にあるたいせつなものすべてを込めることはできない。継続的に生みだしていくなかで再会できたものをひとつずつ、句として定着させていくことがたいせつなのである。わたしの場合、川柳として定着させるという表現行為が、いつしか自身と不可分のものとなっていったのはごく自然なながれだった。
一生をかけて自分自身を創っていくのがわたしたちの生である。各々のさまざまな生の状況がある中で、自身と不可分であると言える表現手段を持ちえたことはありがたかった。《ペン先がわたしをすこしずつ拓く》(たむらあきこ)は先日の生駒市民川柳大会で詠んだ句だが、そのあたりのことを詠んでいるのである。
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