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 コロナ禍の今年、いちばん残念なことは作句数が千句ほどにとどまっていること。“自粛”中なので時間があっても、創作に結びつく刺戟が足りない。ただ句の選をしたり、何かを読みかつ書いている。読書は、わたしに対しつねに問題提起をしてくれる。

 例えば、人間にとっての幸せとは何かとか。どうすれば幸せになれるのか考えない人はいないだろうが、一般に幸せとされることを手に入れるための手段ばかり考えている人が多数なのである。よく考えればそれとはまったく違うところに辿りつくこともある。常識を再考、検証してみることはたいせつだ。

 イノチが突然終わることもあるということを、コロナ禍であらためて思った人も多いだろう。人間がかんたんに生死の境を越えてしまう脆い存在であるということ。「いつ死んでもいいように(いまを精いっぱい)生きる」とはよく言われることだが、コロナ禍で自宅にいる時間が多くなったことでそうした思いもより強くなった。

 わたしのいままでの人生とは、ふつうに子を育て親の介護もし、やっと得た時間を辿りついた川柳に注いでいる。この文芸への挑戦は二十一年前に始まったのだが、おかげでそれまで生きてきた人生とはひと味違う時間をもつことができたといえる。

 何かに挑戦すること自体に意味があった。その何かを探していた。その先の評価などは二の次三の次だった。自分を信じひたすら詠んできたのである。最初から独特といわれた川柳なので、批判もあったが、すぐに受け入れられるようになったと思っている。自分の句への信頼があって貫けた。二十一年前に川柳一般について感じていたことは、いまもほぼ変わっていない。

 人は、自分の辿った道の続きしか歩けない。天台宗の開祖・最澄に〈一隅を照らす〉ということばがある。一隅とは、片すみ。努力して、やっとこの世の一隅を照らすことができるともいえる。一つの道を究めることは至難のわざである。いちどしかない自分の人生で何をするか、何をなしえるか。わたしにとって人生のデザインとは、この至難のわざを極めるための道のデザインなのかもしれないと思うのである



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