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 忘れていたが、川柳マガジン11月号、懸賞川柳葉月賞(お題:音楽)の結果は、応募4句のうち《指揮棒がわたしをコンベアにのせる》が土橋旗一選佳作17、古谷龍太郎選佳作7に入選。あと3句は没。応募総数5202句。

 第18回川柳マガジン文学賞準賞受賞者作品ということで、今月末が〆切の1月号掲載の新作10句に昨夜からとりかかっているのね。夜中の2時ごろから興に乗って、2時間ほどかけたが、もちろんこれから推敲を繰り返さなくては表にだせるものではありません。
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 川柳は一行詩。詩は、ことばの表面の意味だけでなく、美学的に表現される文学の一形式。日本では、明治になるまで詩といえば漢詩で、それ以外で詩ということばを使うようになったのは『新体詩抄』(外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎による新体詩集。出版社は、書店「丸屋善七」 。1882年7月版権取得、8月初編刊行。)などからよね。

 詩に多用される暗喩は、その共鳴効果がイメージを膨らませ、また意味を重層化させる。思いがけないことばのつながりを形成するのね。ただ時代や文化が変わればことばの意味も変化するので、暗喩から得られる当初の詩の美やちからを現在の我われが味わうのはむずかしい一面があるのね。古川柳についても、同様のことがいえる。

 川柳を川柳として成立させている形式上の特徴は何か、よい川柳とよくない川柳との分かれ目は何かという思索はもちろん以前からある。川柳にも詩学、一行詩の美学的考察がもっとあってしかるべきだと思うのね。ところで、詩は散文とは逆のものであると定義されるけれども。散文は、おおむね論理的な説明の傾向をもつもの。川柳は、散文であってはならないはず。

 詩とは何か。しかし、詩を定義しようという試み自体が見当違いであるとする考え方もある。アーチボルド・マクリーシュはその詩『詩論』で「詩は意味してはならない/存在するのだ。」と結んでいるのね。

 いまは散文と詩との境界、さらには詩のジャンル間の境界も文化的な遺物としての意味しかないと見なされるようになってきているとか。俳句と川柳との境界があいまいになっていると言われているが、いずれ短詩型文芸全体が境界を遺物として取り払うことになるかもしれない。詩はなくならないが、境界がなくなるのね。その中で川柳も俳句のように(大袈裟に言えば)グローバル化してゆくということだろうか。

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