「川柳は便所の落書きになれ」といったのは寺山修司よね。正確には、「短歌は歌謡曲になれ、俳句は呪文になれ、川柳は便所の落書きになれ」の一部だったのね。一見川柳に対する蔑視のようだが、これはたぶん川柳へのエール。全体は短詩型文芸全般に対するエールと読めるのね。
寺山は、「落書き」に注目していたらしいのね。とくに公衆便所の落書き。猥雑なことばの横に政治思想があったり、先人の名言などがあったりするのね。そのような落書きを見たかというと、かつては見たような気もする。いまでいう、ネットの掲示板のようなものよね。ヤフコメなどは落書きどころではない、どんな碩学が書いているのかと驚くことも(たまには)あるのよね。
寺山は、東京という都市そのものが「公衆便所の落書きのように詩的」であったという。たしかに、公衆便所というちっぽけな箱の壁に書かれたことばは直截的で身近に感じる。無秩序と猥雑はあるいは都市そのものともいえるだろう。寺山は、「受けとる者がどうとろうと、他者を意識せずに書く歓びだけに没頭できる、純粋に反文学的な記録が落書であり、それを、日記などという保存品にではなく、群衆の糞のたまり場に排泄してくるところに、落書の面白さがあるのです。」といっているのね。(上記赤字部分、さすがの表現よね、笑。)
ちっぽけな箱の壁に書く落書きは、他者を意識していないようでしている。公衆便所であるから、つぎに誰が入るかわからない。その人がまず最初の読者になり、落書きが消されるまではつぎつぎと誰かが読んでいくのね。落書きもメッセージなのである。落書きのような無秩序かつ唐突な世界を探そうと思ったら、いまはネット。上記掲示板のほか、ブログ、ツイッターなど、「つぶやき」は至るところに溢れている。公衆便所の壁がパソコンやスマホの画面に変わっただけだろう。
「川柳は便所の落書きか?」というタイトルの一文で、月波与生氏はつぎのように書いておられる(一部)。
…‥‥‥‥‥‥………‥‥‥‥‥‥………‥‥‥‥‥‥………‥‥‥‥‥‥……
… ここで勝手をいうならば、川柳はなにより、このろくでもない世の中の、たいして面白くもない自分の生に、笑いと毒を入れ、十七音の一行詩として書くことで自らの生を鼓舞していく行為ではないだろうか。… ただ、ほとんどの人は自由には生きていないし、お金もたくさん持っていないし、毎日笑ってばかりもいられない。老若男女を問わずそういう人は、ままならぬ出来事を何かにしたためる。それは日記だったり手紙だったり落書きだったり、そして川柳だったり。
つまらない人生訓なんかわざわざ川柳にせずに、もっと己の生を語れ、鼓舞できるものであれ。
寺山の便所の落書き発言はそのように感じてならないし、川柳の可能性はそこ(に?)あるはずなのだ。
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