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 川柳は俳諧連歌 (はいかいれんが) から派生した文芸なのね。俳句とおなじ五七五の音数律をもつ。俳句が発句(ほっく)から独立したのに対し、川柳は連歌の付け句を下の句に対して行う前句付け(前句附)が独立したもの。季語や切れの約束がなく、口語が主体なのね。

 江戸中期の俳諧の前句附点者(まえくづけてんじゃ)だった柄井川柳(からい・せんりゅう)が選んだ句の中から、呉陵軒可有(ごりょうけん・あるべし)が抄出した『誹風柳多留』(はいふうやなぎだる、1765年-)が刊行されて人気となり、これ以降「川柳」名が定着したのね。人情の機微を詠んだ句が多かった。

 初代川柳は選句を「高番(こうばん)」(古事や時代事)、「中番(なかばん)」(生活句)、「末番(すえばん)」(恋句や世話事など)の分野に分けたのね。性的な内容の句は「破礼句(バレ句、バレは卑猥・下品の意)」と呼ばれ、それらを集めた『誹風末摘花』(はいふうすえつむはな、1776年-)も刊行され、版を重ねたのね。(写真:柄井川柳)

 『誹風柳多留』は刊行され続けたが、一時は寛政の改革(1787〜1793)にともなう検閲により、政治批判や好色など風紀を乱すとされた句が削除されたりした。文化文政期になると、江戸町人文化を背景に一段と盛んになったのね。葛飾北斎(柳号・卍)など、当時の文化人が前文や評者として名を連ねた。

 天保年間に入ると天保の改革(1841~1843)の風俗取締りが厳しく、五世川柳は、存続のために内容も忠孝、報恩などを主とするものに変えたのね。しかし、それまでの自由な表現は内容的に無くなってしまった。言葉遊びになってしまったのね。『誹風柳多留』は幕末まで刊行され続け、延べ167編を数える。この時代までの川柳を古川柳というのね。

 時代は明治。明治36年(1903年)に新聞「日本」で社員の阪井久良伎 (さかい・くらき) が川柳壇の選者をつとめた。同年井上剣花坊(いのうえ・けんかぼう)が入社して、ともに選者となったのね。また井上は「日本」紙面に〈新題柳樽〉欄をもうけ、また読売新聞などでも選者をつとめ、新興川柳の普及に尽力。井上は「大正川柳」を創刊したが、掲載された句が治安維持法違反とされて廃刊に追い込まれるということもあったのね。

 戦中戦後にかけての川上三太郎(かわかみ・さんたろう)「川柳研究」、村田周魚(むらた・しゅうぎょ)「川柳きやり」、前田雀郎(まえだ・じゃくろう)「せんりう」、岸本水府(きしもと・すいふ)「番傘」、麻生路郎(あそう・じろう)「川柳雑誌」、椙元紋太(すぎもと・もんた)「ふあうすと」の6結社は川柳に貢献したとして、後に6名が川柳六大家と呼ばれるようになったのね。

 現在のサラリーマン川柳など一般公募による川柳は投稿者も幅広く、新しい表現分野になりつつあるのね。これらは、初代川柳期の無名性の川柳と似ているのかもしれない。大衆の〈共感〉が作品評価のベース。これらをより文芸性の高いものへと引き上げたいもの。そこには、やはり柄井川柳のような一流の選者がかかわらなければならない。

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