6日。13時半にとのことで、その時間に海上自衛隊第1術科学校の教育参考館に『前田咲二の川柳と独白』の寄贈について電話させていただいたのね。答えは、「書籍は受け付けていないので」とのこと。残念だが、そういう規則ならしかたがない。以前、江田島に吟行に行ったときのことを思い浮かべて、あらためて江田島は「武」の島だったと思った。だれよりもやさしく、「おれは人を殴ったりはできんのや」とおっしゃった前田先生の居場所としてはどうだったのだろうかと。
当時海軍兵学校の生徒は郷里の誇りとされたのね。先生もさいごまで海軍兵学校の卒業生であることを誇りにしておられた。「あの頃は東大・京大とは言わないで、勉強が出来たら海兵・陸士と言われた。両方(試験を)受けて両方受かったんで海兵へ行った」とおっしゃっていた。以下、ネットから。
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… 三橋さんは笑いながら、こんな“秘密”も教えてくれた。兵学校に通う青年たちをうつした写真集を、みんなで「回し読み」したのだという。 「『海軍兵学校』という、立派な本が出たんです。ある日友達が買ってきてね、素晴らしいわよなんていうから。みんなで、ずうっと回し読みしたんですよ」 海軍兵学校とは、大日本帝国海軍の士官養成を目的にした専門機関。広島県の江田島にあった。 三橋さんが手にしたものは、海軍報道部が監修し1943年7月に出されたもので、生徒たちの日常や訓練の様子を切り取った写真集だった。
報道写真集 海軍兵学校
そんな少女たちのつかの間の幸せも、長くは続かなかった。授業の時間はどんどんと少なくなり、工場や農家への勤労奉仕が増えていったからだ。 1944年も暮れの頃になると、戦況はますます悪化。作業をしている頭上には、敵機が悠々と飛ぶようになった。…(一部抄出)
2019/10/21(月) 12:55配信 ![]()
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寄贈の件は残念でしたね。
経緯とエピソードのアップ、参考になります。
そうなんですか。
「東大・京大よりも海兵・陸士」。
なるほどねえ、時代の雰囲気が掴めました。有難うございます。
江畑 哲男さま
ま、規則だからしかたないですね。
先生の亡くなられる前年、江田島吟行をしているので、ちょっとあとでアップしてみます。
先生はギリギリで戦争には行っておられないので。
原爆を江田島から見ておられるのね。
そのことを詳しく話してくださいました。
時代の証言者としていろいろと書き残しておいてほしかったと思います。
当時は、海兵がダメなら東大を受ける、という時代。
憧れの学校だったのね。
「教育参考館」に先生の写真があるようで。
「見ておいで」と言われたのですが。
船に乗り遅れて見学の時間がなかったのね、笑。
それを今回寄贈のときに見てこようと思っていたのに、残念でした。
尾藤三柳先生も、「えっ、前田さんは海兵出てるの!?」と驚いておられたから。
あの年代の方ならどんなレベルの学校かをよく知っておられたのでしょう。
文武両道、ユーモアたっぷり、気さくでどこかかわいい(?)先生でした。
何をなさっていても、一流だったと思います。