仏教に『愛別離苦(あいべつりく)』という苦しみが説かれている。避けることのできない苦しみの一つが『愛別離苦』。文字通り、愛する人・モノと別れなければならない苦しみのこと。
童謡の「しゃぼん玉」は野口雨情作詞。
しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで こわれて消えた
しゃぼん玉消えた とばずに消えた 生まれてすぐに こわれて消えた
風、風吹くな しゃぼん玉とばそ
雨情が徳島にいたとき、故郷の茨城から、二歳になったばかりの娘が疫痢(えきり)で急逝したという知らせが届いたのね。愛し子を失った悲しみ、あまりにはかなく消えたいのちへのかなしみが、この童謡を生んだというのね。
短い歌詞のなかに「消えた」という語が四回。愛し子を失った悲しみがどれほど深いものであったか。仏教ではこの苦しみを『愛別離苦』というのね。
大切なものがふだんは大切なものと分からず、失ってしまったときに、いかに自分が支えられてきたか、頼りにしてきたか、はじめて思い知らされるのね。
どんなしあわせも続かない。花火のようにはかないものと思うから、それを予感して、愛する人といてもこころからの安心ができず、恐れおののき続けている、そんな存在が私たちだと仏教は説いているのね。
『会者定離(えしゃじょうり)』、これも仏教のことばで、出会いにはかならず別れがある、という意味。人は生きる限り、『愛別離苦』の悲しみから逃れられないのね。《会者定離 ありとはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざりけり》(親鸞聖人)。
死は万人の未来なので、たいせつな人ともやがて別れがくることを覚悟しておかねばならない。『無常』とは仏教できわめてたいせつな教えだが、一切は続かない、ということよね。愛している人もモノも、瞬く間に去っていく。『愛別離苦』はどこにでもある普遍的な苦しみなのだ。
価値観のめまぐるしく移り変わるこの世で、水墨画にせよ、川柳など文芸にせよ、いつまでも人々がそのことに価値を見出してくれるとは限らない。しかし、懸命のライフワークとして遺されたものを、あたかもゴミクズのように葬り去れようか!
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あの童謡は哀しいですよね。
詩もメロディーも。
仏教は深い。
小生などは、つねに六道輪廻を繰り返しております。
江畑 哲男さま
亡父が生前言っていたことに、「枯れすすき」の作詞(原作?)はうちの祖父だと。
祖父がそう言っていたらしいのね。
じつは、文学青年だった祖父は当時東京の出版社?に勤めていて、文士たちと交流があったようなのね。
実家にそれらしい立派な方々と写した写真が一枚残っているのね。
本人にも『新聞記者の罪悪』という著書があるのですが。
「枯れすすき」、もとは作詞者不詳と書かれていたと思うのですが。
いま見ると、Wikipediaでは、野口雨情となっているけれど。
大正10年以前のことでしょうが。
ちなみに、亡父は大正15年(昭和元年)東京生まれです。
もっと正確に聞いておけばよかった。
親の言うことはちゃんと聞いていないのね。
いつでも聞けると思うからかな、笑。