和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敝可母 大伴家持(おおとものやかもち)
わが宿のいささ群竹(むらたけ)吹く風の音のかそけきこの夕べかも
(わたしの家の小さな竹の茂みに吹いている風の、その音がかすかに聞こえるこの夕方であることよ。)
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27日夜、伊丹空港を発って仙台まで。翌28日に開催の、第63回 東北川柳大会に出席の予定。久しぶりに懇親会(瓦版句会以外には滅多に出席したことがない)にも出席、みなさまにご挨拶させていただこうと思っている。
翌29日は、大伴家持所縁(ゆかり)の多賀城址を吟行。時間があれば松島辺りまでさらに吟行の足を伸ばす予定。
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延暦4年(785年)兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没したという説と遙任の官として在京していたという説がある。したがって死没地にも平城京説と多賀城説とがある。没直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、家持も関与していたとされて、追罰として、埋葬を許されず、官籍からも除名された。子の永主も隠岐国に配流となった。延暦25年(806年)に罪を赦され従三位に復された。(Wikipediaより)
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家持の遺した上記の歌を舌頭に転がしていると、しみじみと心に入ってくる。
春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげにうぐひす鳴くも
うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば
上記2首を併せて(『万葉集』巻十九・4290〜4292)、「春愁三首」として知られている。このような歌を詠んだ家持は如何なる人物だったのか。
「立山賦」から始まった家持への関心は、大伴神社へ、さらに終焉の地と考えられる多賀城址へと私の背を押す。歌を通じて家持のたましいが乗り移ったかのよう。見えない力に引き寄せられているかのようでもある。かの地で家持が何を語りかけようとしているのか。「家持の影を追って‥多賀城址にて」として、一連の句に纏めたい。
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私は今、脳の研究中でありまして、最近入手のニュースをひとつ。
「虫の声が聞こえるのは、日本人とポリネシア人だけ」とか、(脳の科学より)
ましてや、群竹の音、氷の音、枯葉の音、雪の音。四季折々のどの音を聞いても、日本人の脳は感傷的(詩的)にとらえる才智があるそうです。ポリネシア人が短歌や俳句を詠むかどうかは知らないけれど、いわば日本人の誰にも詩情があり、音を愛でる能力があるという。
という事は、折角、我々に与えられた能力なのだから、使わねばもったいないのです。
聞こえてますか~ ○○○の人~。
茶助さま
はいはい。
○○○=あの世?
難しいのよね~(深くは考えないあきにゃん)。(^_^;)
ところで、ふなっしーは年収○億円とか。ゆるキャラあきにゃんもなんとかならんかな~。
ビンボーながら、27日から宮城県へ。またまた吟行です。
どうも、あの世から家持卿がおいでおいでをしているのよね。あの世には行かないけれど、多賀城址まで行ってきます。
最期が悲惨なのよね。日本史に詳しいおにーさま、いろいろと調べてみてください。( ..)φメモメモ