瓦版句会のあと、いつも16、17名ほどで淀屋橋駅近くの「ミュンヘン」にて懇親会、の流れになる。飲めない私も毎回お付き合いさせていただいている。句会当日はだいたい疲労困憊しているので(朝から作句、難波辺りで推敲、句会準備ほか)、みなさまにビールを注いで差し上げるということもない。
この場でマメに動いてくださるのは「瓦版の大蔵大臣(?)」ことN子さん。ごめんね~、いつも役に立てなくて。だいたいおカネの勘定が苦手。幹事もたまにさせていただくが、帳尻が合わなくてかえってご迷惑をかけることになったりする。
お酒が回ってくると(回らなくても)、話がはずんでくる。
「ところであきこさん、あんたもう女を捨てたんか?」
と、失礼なK氏。
「…『ほっといてくれる?』」
「女も、恋をせな枯れてきまっせ~。誰かいないんか」
「まあね~。そりゃまあ、いつどこで(カレが)できるか分からん(冗談)」
「…『ほぉ~!』」
枯れて「花」がなくなり、句に「花」がないのは困る。文芸のみならず芸能・芸術一般に言えることかもしれない。
世阿弥(1363~1443。室町前期の能役者、謡曲作者)の「風姿花伝(ふうしかでん)」に「花は心、種は態(わざ)なるべし。」とある。能芸の美しさを表した言葉で、「花」は心によって咲き、その種はあくなき修行の努力によってもたらされるものである。努力のないところに「花」は咲かないのである、と。まあ、それはさて措き。
「花」のある句を詠むためには、とくに生身の人間への「恋」が要るとは思わない。恋心とは、たとえば逝った人を慕う気持ちであっても、傾倒する柳人への熱い心であってもよいのではないか。
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