第3回川柳マガジンクラブ和歌山句会 (2025・12・24)
川柳とは、一行詩である。
下記は、番傘フェスタ2025における記念句会での川柳塔社・平井美智子氏選「岐路」と番傘川柳本社・片岡加代氏選「映える」の入選句、各7句。ご参考まで。
こうなれば下駄に答を問うか岐路
田舎道岐路に地蔵の笑みが待つ
鉛筆転がした不合格だった
どの岐路もボクを育ててくれました
決断の日ものり弁を食べている
トースト焦がすか着信無視するか
真っ直ぐな道には春の頭陀袋
逆光線の中に愛しい人がいる
ドヤ顔で売り場で吠えているキャベツ
あけぼのの空から春が立ち上がる
しなやかな黒猫映える夢二の絵
大落暉狂ったようにあざやかだ
たこ焼きが大阪弁によう映える
朝の日に映える大河をふところに
【※】
平成17年の末頃からだったか、大阪や京都の句会に出席するようになって、各句会でよく“秀句”をいただくようになった。ああ、この句でいいのだと。そうこうするうちに平成19年の夏、大阪の展望句会ではじめてお声をかけていただいた“東の横綱”前田咲二(まえだ・さくじ)先生から、同年秋ごろ「後継者として瓦版句会に来てほしい」というお声がかかった。
長く短歌を詠んできた私の川柳は、当時和歌山市内の結社で詠まれていた川柳とは相いれないものがあったのだが、県外に出ていけば川柳界はふところの深いフィールドだった。私の詩性川柳は全国の多くの句会大会で上位に採られるようになった。
人間の喜怒哀楽、いずれを詠んでも川柳。「哀」を詠む私の川柳は、「哀」が人間のもつ感情のもっとも深いものだけに、ある選者は「“秀句”に採らざるを得なかった」とおっしゃった。私の川柳は現在もその多くが「哀」の川柳であり、これからもそれが大きく変わることはないだろう。「哀」を主観的かつ客観的にほりさげて十七音に表現する、そのことがこれからの課題である。(たむらあきこ)
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たむらあきこさんの川柳は喜怒哀楽の『哀」を詠む。作句を続けていると何を書くか、より何を書かないかを考えることがあり、書かないことを削ぎ落としていって最後に残るもの、それが詠むべきものなのでしょう。私はまだそこまでいけてないので来年も思いついたままに書き散らすだろうなと思います。
月波与生さま
>書かないことを削ぎ落としていって最後に残るもの、それが詠むべきものなのでしょう。
書かないこと書けないことを心の中で洞察、静かに熟成?させております。
そこがいちばんあきこの芯となる部分。
痛みがあり過ぎて簡単には書けないというか。
そこを作中主体としてのあきこの“影”に語らせようと思っています。
おたがいにがんばってまいりましょう!! (^^)/