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(@v@) 耐久生涯大学 川柳専科
2025 年2 月8 日(土)13:00~14:30
【鑑賞】
「川柳葦群」創立5周年記念川柳大会 各題優秀句(14年前の大会)
「旅」 新家完司 選 
わたくしに真水を足してくれる旅  たむらあきこ(和歌山)
「水」 木本朱夏 選
水っぽい話はよそう桃熟れる  中川しのぶ(熊本)
「立つ」 大西泰世 選
坊さんと同じ顔して立っている  加賀田干拓(福岡)
「橋」 森中惠美子 選
橋落ちたまま晩秋の村となる  間瀬田紋章(宮崎)
「白い」 西崎久美子 選
ひっそりと去った色鉛筆の白  野沢省悟(青森)
「舟」 川渕学 選
終章は等身大の舟で発つ  楠根はるえ(福岡)
「群れ」 松村華菜 選
群れを出た若者の背が伸びている  桜木えり(宮崎)
「海」 梅崎流青 選
水葬の海は鴎を近づけぬ  加賀田干拓(福岡)

作句&添削


※白板に各自2句ずつ書いておいて下さい。(互選・添削用)


❸川柳とはなにか講師の来し方・歩き方
   1999年川柳開始。最初は、川柳とはどんな世界かちょっと覗いてみようと思っただけだった。番傘系の句会では納得できたが、つぎの川柳塔系の句会ではよく分からなかった。正直なぜこんな句が入選なのかと思い、一年ほどはいつやめようかと思っていた。翌年のわかやま吟社での四賞受賞句を見て、これなら分かると思った。下記の年間賞をいただいたのが、川柳での初めての「結果」だった。
平成15年度 葵水賞  川柳塔わかやま吟社
第1位 西出 楓楽 選 あいまいを許さぬ針が錆びている 

 しかしそれからも、心の中では正直いつ短歌に戻ろうかという葛藤があった。川柳に迷い込んだという気持ちがいつまでも残った。川柳と短歌、両方取り組むには如何せん時間がなかった。 

 息子が大学生になって下宿が決まり、家を出たあと父の介護。父が亡くなったのは平成16年(2004年)3月23日。水墨画の遺作展の準備ほか、あとの処理でその年は暮れた。平成17年3月23日から遺作展、同年終わり頃川柳マガジンクラブ大阪句会(代表:たにひらこころ氏)に出かけるようになった。和歌山市内だけではなく大阪や京都、さらに全国の句会大会に出かけ、川柳を本格的に始めたことになる(それまで短歌、エッセイ、詩、俳句など、それぞれ10年以上取り組んできている)。

 いろいろな句会を行脚するうち、平成19年(2007年)8月、初出席の大阪の展望句会で、“東の横綱”として著名な前田咲二先生から同郷ということでお声をかけていただいた。何度か瓦版句会出席のあと、「(瓦版の会の)後継者として来てくれ。交通費も同人費ももつから来てくれるだけでいい」とのもったいないお誘いで、思ってもみなかった時事川柳専門結社瓦版の同人になった。

 瓦版の編集同人になって2年目くらいのこと。先生のご意思は明確で、たいせつに誇りにされていた関西版読売新聞「よみうり時事川柳」のつぎの選者を「直接あんたに渡したい」とおっしゃった。はっきりとはお返事しなかった。というのも、「よみうり時事川柳」の選者はできても、瓦版の会会長を兼任しなければならないことをむずかしく感じだしていた。先生は「これからは女性でええんじゃ。やったらできるぞ」とおっしゃった。

 先生のご体調が悪くなってきた(懇親会などで何度か吐かれた)あたり(2016)で、(それを待っていた?)現代表に電話で〇〇されたあとも、瓦版句会や編集会校正会に出席していた。先生にはご心配をおかけしたくなくて、〇〇されたことは話していなかった。会のあと京阪寝屋川市駅まで先生を送らせていただく途中で、「(私は)いつまで瓦版にいるか分からない」と申し上げた。先生は(私が)何を言っているのか分からない、というような表情をされた。

 〇〇のあとの編集会(校正会?)では、さすがに現代表は自分の原稿をいつものように私に「見てくれ」とは言えなかったようだった。現代表には、いつも数か所の間違いや疑問点を指摘してあげていた。私の原稿は前田先生に見ていただいていた。前田先生は達吟家と称えられるだけあって文章にも隙がない。当然のことながら瓦版誌の格調を落とさないよう、文章のチェックにも厳しいところがあった。私の文章は、ありがたいことに問題なしということで返された。

 前田先生は生前、私のことを「弟子はあんただけや」とおっしゃった。「(読売新聞社に)後継者として(あんたの)名前を届けておくぞ」という前田先生のことばに、(〇〇してくるような現代表とは一緒に仕事ができないので、申し訳ないことだが)ご辞退させていただいたとき、先生は「瓦版に残って●●(現代表)を助けてやってくれ」「残って、瓦版の重しになってくれ」ともおっしゃった。先生は、なんとなくご自分の寿命を感じておられたのではないか。

 先生は会のことを第一に心配しておられたので、私が「いつまでも(瓦版の会には)いない」とそのときも申し上げたのは、いまから考えるとほんとうに申し訳ないことだった。先生はどんなに当惑し悲しまれたことだろう。栴檀木橋の上での、そのときの先生のお顔を忘れない。先生は、瓦版の会をきちんと託して安心されたかったのである(先生はこの年の12月に倒れられ、翌年9月に亡くなられた。享年92)。

 川柳とはなにか。結論から申し上げると、句に、自分以上のものを盛ることはできない。川柳とはなにかを問われれば、「川柳とは個々の〈にんげん〉の生きざまそのもの」と答えるしかない。(たむらあきこ)

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