年齢的に、自分の死に方について考えるときがある。ふだん医者にはめったにかからず、医者の言うことはあまり信じず(笑)、ストレスを溜めないよう、まずは自由に暮らしているのだが。
人生の幕を閉じるとき、後悔のない生き方とはどんなものか。自分の心と体の声をしっかり聞き、そのうえでいま現在を生きるしかない。来年生きているかどうかわからないのだから、行きたいところに旅行したり、これから死ぬまでの生活を彩りながら楽しむことを考えるのね。
川柳界をここしばらく見ていて、いちおう名のあった柳人でも亡くなればすぐに忘れられ、消えてしまっていることに気づいた。生きているいまの評価ではなく、逝ってからの評価ですべては決まる。逝ってからも名が在るということのむずかしさを思うのね。したがっていま現在の評価に喜んだり、落ち込んだりする必要はないとも思うのね。ホンモノは逝ってから輝く。
わたしもこれだけ(約8万句?)詠んできて、正直そのうちの一句くらいは逝った後も振り返ってもらえるかと思わないでもない。そういうことをまったく思わないという柳人もおられるだろうが。
われわれはみな、いつかは死ぬことを前提に生きている。それまでに好きなものを食べ好きなことをし尽くし、めいっぱい生きて気が付くと死んでいた、というのが理想の人生なのかもしれない。
老後(いまも老後だが)は川柳を続けながらぎりぎりまで自宅で過ごしたいと思っているが、体が動かなくなったら施設に入ることも考え始めている。一人暮らしなので、施設に入る前にいわゆる「孤独死」をする可能性もある。
わたしの場合は、一人で静かに逝くのもいいと思っているのね。そもそも死ぬ瞬間は誰しもみな一人。一人で死ぬのが可哀想とか惨いとかいう捉え方は違うと思うのね。
しかし、いまの集合住宅の自室でというと。うっかり孤独死などすると親族や周囲に迷惑がかかるとも思うのね。したがって、ぎりぎりまでここで暮らし、体の自由がきかなくなってきたらどこかの介護施設でお世話になることを考えているのね。
死後の世界はあると思っている。しかし凡俗が死生を超越するというわけにもいかなくて、生への執着は大いにある。いままでほとんど医者にかからなかったのは、宗教に帰依しているというわけではないが、現代医学を100%信じているというわけでもないからなのね。
川柳については、正当な評価は「逝ってから」だろうとは思うが、そのことがどうなってもこれは致し方ない。川柳そのものがどうなるか、それも分からないのだから。しかし、死を意識したほうが句作をがんばろうという気にはなる。ただそういう意識も過ぎると「(たんたんと)老後を生きること」への差し障りになるかもしれない。結局、どう生きるか、これからも自分の心と体の声をしっかりと聞くしかない。
吟行という旅のカタチは、最高の死に方につながると考えている。最高の死に方すなわち最高の生き方としての旅のカタチなのである。この先、要介護になったら、残された身体機能と介護保険はフルに使い、どこにいてもさいごまで一回きりの人生を川柳とともに、自由に楽しく暮らそうと思っている。
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