昨日のブログに書いた、俳人の「平松小いとゞ」。先の戦争で戦死しているのね。かつて仏教用語の散華(さんげ)は戦死の婉曲的表現だった。戦死者のことはもちろん英霊とも言われるのね。
前田咲二先生メモからたまたま行き当たった俳人小いとゞだが。先生の10歳上ということで、12歳から句会に出席しておられた前田先生とはもちろん面識があったと思うのね。小いとゞが昭和19年に戦死、終戦後20歳の前田先生が熊野吟社の平松いとゞから頼まれて編集にたずさわっておられたということだろう。小いとゞ27歳の戦死は先生にとってもショックだったのではないか。前田先生の文才を考えるに、ここでもすぐに頭角を現しておられたことは間違いない。俳誌「熊野」に一日もはやく目を通したいものである。下記は、小いとゞの略歴。(Wikipediaより、一部)
平松 小いとゞ(ひらまつ こいとど、1916年(大正5年)9月26日 – 1944年(昭和19年)6月7日)は、日本の俳人。和歌山県新宮市出身。父・竈馬の影響下、高濱虛子に師事、時にユーモアを交えた繊細で家庭的な温もりを持つ作風であったが、学徒動員で出兵、中国河南省での作戦に従軍、戦闘中に敵軍の銃弾に斃れた[1]。《紙白く書き遺すべき手あたゝむ》は、出兵に際しての遺書とも取れ、命日は「白紙忌」と名付けられた[2]。
1916年(大正5年)9月26日、父・平松竈馬(「ホトトギス」俳人、本名義彦、俳号はいとどとも、いとゞとも記される)、母・おとえの長男として、和歌山県東牟婁郡新宮町磐盾に生まれる。本名は一郎。父・竈馬は1921年(大正10年)3月に「濱子」という俳句雑誌を出していた義兄・大野郊外(1915年3月16日歿)の七回忌を執り行い、「郊外遺稿」を編む[3]。また、4月、俳句雑誌「熊野」を創刊。後に「熊野」は小いとゞの一大拠点となった。
1923年(大正12年)、第二尋常小学校(後の蓬萊小学校)入学。1926年(大正15年)、「熊野」8月号「雑詠」(島田青峰選)に《ぬれ草に大きく光る螢かな》など二句が入選し、俳句を作り始める。当初より俳号は小いとゞであった。同年「ホトトギス」10月号「各地俳句界」欄(西山泊雲選)に《木の枝に浴衣を掛けて夕すゞみ》が載り、「ホトトギス」に始めて足跡を残す。同年「熊野」11月号掲載の《海の上一めぐりして鳥渡る》は、歿後の1947年に刊行された『五人俳句集』(高濱虛子選、菊山九園編、竹書房)の巻頭句で、虛子が認めた最も初期の小いとゞ作品となる。1928年(昭和3年)、「ホトトギス」8月号「雑詠」(高濱虛子選)に《野遊につゝじを掘つてきたりけり》が初入選。
1929年(昭和4年)、新宮中学校(現、新宮高等学校)へ進学。この頃、「熊野」に女子を含む小いとゞの同年代の学生の投句が増えている。また、小いとゞ自身は、本名・一郎で投句することが屢々あった。
1933年(昭和8年)、虛子の代表句の一《神にませばまこと美はし那智の滝》を生んだ虚子先生歓迎熊野吟社春季大会に出席。1934年(昭和9年)、第三高等学校文科乙類に入学、京都市山科に下宿する。1937年(昭和12年)4月 – 8月、郷里熊野の赤木尋常小学校代用教員に任命される[4]。この時のことを小いとゞは「子供らとの追憶」[5]「幹夫のこと」[6]という小説仕立てのエッセイにまとめ、「熊野」に発表した。
1938年(昭和13年)、京都帝国大学法学部に入学。この頃より、鈴鹿野風呂の知遇を得る[7]。同年11月に刊行された竈馬第一句集『熊野路』は、「印刷所との掛合から、装幀、体裁、組方、校正、その他微細なる点に至るまで」小いとゞの協力でなった一本だった[8]。1939年10月、京大三高ホトトギス会の仲間と、琵琶湖ホテル滞在中の高濱虛子を訪ねる[9]。「小いとゞ君を先頭に」と、虛子は『五人俳句集』「序」で述懐している。
1941年(昭和16年)10月、高等試験司法科合格。12月、臨時徴兵検査を受ける。12月28日、京都帝国大学を繰上卒業。
1942年(昭和17年)1月、司法官試補、東京民事地方裁判所及び東京刑事地方裁判所の検事局付きとなる。2月、応召、和歌山の部隊で内地勤務。小いとゞ宛虛子書簡《平松の緑目出度武運かな 虛子》[10]。同「熊野」4月号にて、小いとゞは《伊太祁曾はわけても春の木々の神》他で「雑詠」(竈馬選)巻頭を得る。5月、和歌山から列車で久留米陸軍予備士官学校[11]へ赴く。6月、伍長に任官される。「熊野」7月号より「筑紫便り」を3ヶ月連載。竈馬宛に送られた俳句を交えながら消息を知らせる葉書を纏めたものである。久留米では激しい実戦訓練の日々を送るが、俳句は作り続けられた[12]。
1943年(昭和18年)12月、少尉に任官される[13]。
1944年(昭和19年)正月、帰省。偶会が持たれ《勝つための屠蘇ありがたしうち酔ひぬ》《動員の夜はしづかに牡丹雪》《酷寒の瘴癘の地の孰れとも》《紙白く書き遺すべき手あたゝむ》などを出す[14]。このうちの後三句「動員の」「酷寒の」「紙白く」が「ホトトギス」4月号「雑詠」に載り、小いとゞにとって初巻頭であった[15]。翌朝には《干大根静かや家に別れんとす》などとも詠んでいる。
2月半ば、門司港より船で出征《冬海に泛び故国を離れたり》、北支方面軍派遣。釜山より汽車で中国に入る《寒月下アリナレ動くとも見えず》。しかし、仮の陣地に入ってもまだ余裕はあった《いくさ閑惜春なきにしもあらず》《仮陣に薔薇活けさすも我がこのみ》。戦史によると、霊宝作戦が6月1日から始まっており、それに従軍したものと考えられている《尖兵長命ぜられ麦畑に地図ひろげ》。初の実戦が尖兵長であった。
6月5日、雨中を前進する。雨期、豪雨の中の体温を奪われ、体力を消耗する前進であった《寒く暗く豪雨に腹も水漬き征く》。1944年の句の正確な制作日は、分かっていない。しかし、『平松小いとゞ全集』(谷口智行編、2020、邑書林)は句を「寒く暗く」の句に続く次の四句で締めている。《焚火まづ豪雨にぬれし地図を干す》《将校斥候秘してぞ行くも五月闇》《五月闇に弾吐く銃丸見つけたり》《緑蔭より銃眼嚇と吾を狙ふ》。敵弾は顔面に命中[16]し、小いとゞは仮陣へ運び込まれた。6月7日午後7時「ホトトギス十一月号の雑詠句を初めから読んでくれと言ひ、前島(譲)君が読むのを聞きながら莞爾として大往生を遂げた」[17]。享年二十九、満二十七歳八ヶ月の、戦争に翻弄された若き俳人の生涯であった。
戦後、「熊野」在籍の俳人たちは、6月7日を「白紙忌」として、小いとゞの人柄と業績を偲んだ。
古代より多くの戦死者が勇士や英雄とされたのね。中世ヨーロッパでは、騎士など主要な戦死者は教会などで聖人や聖人に準じた扱いを受けた。いまもユダヤ教、キリスト教、イスラム教では、異教徒との戦争を聖戦と呼び、その戦死を殉教と呼ぶことが知られているのね。
日本では、古来より敵味方双方の戦死者を慰霊・追悼する碑が複数存在している。第二次世界大戦では軍民合わせて約310万人の日本人戦死者・戦没者があった。明治から昭和初期にかけて、いわゆる国家神道により国家が靖国神社や護国神社を創建、民間でも忠魂碑・忠霊塔がつくられたのね。靖国神社と、身元不明の遺骨を納めた千鳥ヶ淵戦没者墓苑には、2018年9月に吟行ででかけた。下記は、「千鳥ヶ淵戦没者墓苑吟行7句(2018/9/25)」。
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聖苑(せいえん)までの径(みち)鬱蒼(うっそう)をぬけてゆく
影(かげ)へ影(かげ)かさねる戦没者墓苑(せんぼつしゃぼえん)
びっしり人(ひと)の顔(かお)がある葉(は)と葉(は)のすき間(ま)
楠(くすのき)から欅(けやき)から顔(かお)だすみたま
六角堂(ろっかくどう)のかぜにまぎれている呻(うめ)き
御製(ぎょせい)の碑(ひ)ふたつをかぜが往(ゆ)き来(き)する
一輪(いちりん)をたむけ千鳥ヶ淵(ちどりがふち)に凭(よ)る
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もし、あの戦争がなければ、小いとゞさんはどんな生涯を送っていただろうか。それを思うと忍びないのね。もちろん、旧制新宮中学きっての文武両道の秀才ゆえ江田島海軍兵学校に入校された前田先生も。それを思うとことばが出てこないのね。
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