17日は、紀伊勝浦駅を9時前に出て、普通で新宮に向かったのね。新宮駅からは、神倉小学校(千穂小学校が丹鶴小学校と合併)に向かうつもりでアバウトに東の方に向かって歩いた。アバウトに歩くことに旅の趣があるのね。しかしどういうわけか新宮城跡に行き当たり(笑)、そこまで来ればやはり熊野速玉大社まで。
少し戻って、神倉神社のほうへ。歩いていればそのうちに神倉小学校に行き当たるだろうと、通行の人にも尋ねながら歩いたのね。やっとたどり着いて、小学校の塀に沿って歩くと、なんと!神倉神社の入り口だった。敷地が広くて、そこまであったというわけ。前回は意識していなかったせいか、小学校の存在にも気付かなかったのね。新しい立派な小学校で、そのことにも驚いた。句は、とくにできなかったのね。前田先生はここに5年生の一年間だけ通われたのね。つぎに行かれた旧制新宮中学(新宮高校)は、そのちょっと先。感慨深いものがあった。(写真:神倉神社御燈祭り)
一人旅とは、文字通り、一人で旅をすること。自身で交通手段や宿泊場所などの段取りもつけ、単独での旅。一人旅にもいろいろなスタイルがあるだろうが、一人旅をうたって旅行会社が売っているパック旅行などはいいとは言い難いのね。パック旅行では、旅そのもののもつ自由さが得られないのである。用意されたコースをたどるだけの旅をしても、その地を知ったことにはならない。
分刻みのスケジュールに追い立てられるようにお仕着せの宿でお仕着せの料理を食べ、というのではまったく一人旅とはいえない。その地に暮らす人たちと触れ合うこともなく、中途半端に縛られている旅だからである。おまけに、たいていは結構な代金が設定されている。ふところにもやさしくはないのね。
一人旅で訪れれば、道を尋ねたりするうちに人情に触れることもでき、スケジュールはとくになく、自分の気持ち次第で動けるから自由である。土地の名産なども安く口にすることができる。土地の人々の息づかいを感じることができなければ、旅とは言えないのではないか。その土地の、ありのままの姿を知ることこそが旅の喜びなのである。
会社など組織や、家族からでさえ自由になりたいのは人間の願望だろう。友人たちとの旅はそれなりに自由ではあるものの、重ねるほどに飽きがくるに違いないのね。話題も尽き、一緒に行く人とのいろいろな調整なども気になるようになれば、旅ではなくなってしまうのである。手づくりの一人旅こそが旅、それがもっとも豊かな旅なのである。そこに吟行という目的がつくと、価値もまた大きく違ったものになる。
旅先は、有名な景観地がやはり吟行にも向いている。そこに歴史があることから、〈にんげんを詠む〉川柳に向いているのである。また、好みとしては温泉地だが、これは年齢によるものだろうか。しかし、これからは流行り?の「都市ステイ」という旅も悪くない。ビルに囲まれた中で作句しながらの彷徨、ほどよい孤独感が川柳を詠むにも向いているような気がする。
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一人で行くのが旅。グループで行くのが旅行。
という言葉をふと思い出しました。
雨森 茂喜さま
お久しぶりです。
草原句会に行かなくなってから、まったくお会いすることがなくなりましたね。
そこへコロナ禍。
またどこかでお目にかかりたいものです。
>一人で行くのが旅。グループで行くのが旅行。
たしかにその通りですね。
以前はよくグループで旅行していたものですが。
父が亡くなってからは、一人旅がほとんど。
自分の残り時間を意識し始めたからでしょうか。
時間もですが、少ないお金を有効に使うためにも、一人旅はこれからも続くと思います。
コメントありがとうございました。
またのコメントをお待ちしております! (*^^*)/