自己卑下とは、他者に対して選択的に自己の否定的な側面をさらけ出すこと。自己の肯定的な側面を積極的に示すことを避けることなのね。日本文化には、自己卑下を望ましいとする規範が存在するのね。他者に対し、自己卑下を行うことを通じて好意的な反応を受けることができると考える。
欧米では、能力に関する自己卑下がリーダー性の欠如として受け取られる。日本をはじめとするアジア文化では自己卑下は額面通りに受け取られず、むしろ対人的に好ましい人物と見なされるということがあるのね。
ところで。われわれ川柳人は、この川柳という文芸にかかわっていることに対して自己卑下がないだろうか。わたし個人について言えば、卑下どころか反対に大いにプライドをもっているのね。短歌、詩、俳句とやってきて、そこそこの評価は受けながらもさいごに辿りついたのが川柳。じつは、師・前田咲二先生もそのことについてはわたしと似ていたのね。前田先生は、短歌や俳句においても、余人を寄せつけぬ才能を示された。そんな先生がさいごに選んだのが、川柳。川柳に短歌や俳句を超える何かをみつけられたからこその到達点なのね。かつて川柳界の第一人者と称えられた尾藤三柳師も、「川柳は俳句より上」とはっきりおっしゃった。にんげんを詠む川柳が自然諷詠の俳句を超えているのは、まったく当然のこと(だと思う)。
川柳には狂句といわれた歴史がある。狂句とは、構想や内容が滑稽な詩句のこと。狂気じみた詩句の意で、自らの詩句を謙遜しあるいは自嘲的にいうこともあるのね。川柳人であることをどこかで卑下するところがあるとすれば、この狂句といわれた歴史がまだその方のなかで尾を引いているからかもしれない。
しかし、川柳をいまさらほかの短詩型文芸にかえられないことは川柳人ならよくよくわかっている。わたしにしても、まったく後戻りできないのね。川柳を詠むという行為の原点に「川柳でなければ詠めない」と思うところがきっとあったはず。川柳という文芸を選び取ったかつての衝動に対して、仮に無自覚だったとしても、作品としてかたちを与えていくうちにそのことは確信に変わるのである。わたしにとってこの文芸の魅力は、未踏の原野に入ってゆく開拓者の気持ちを想い起こさせてくれるところにあるのかもしれない。
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