柳友月波与生(つきなみ・よじょう)氏から新著を届けていただいた。下記、同書に掲載の一文は、柳誌「せんりゅう紫波」2016年1月号掲載の、『たむらあきこ千句』への氏の書評(一部訂正箇所あり)。再掲し、次回は他の気になった一文もとりあげさせていただきたい。
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決意する一行詩
~句集『たむらあきこ千句』を読む
いま、川柳を書いている人には、川柳を書いていなかった頃も当然ながらあって、自分も含め川柳を書く人に、「川柳を書くことで、人生しあわせになれましたか、こころ豊かになれましたか」という問いかけをしてみたい。自分の事でいうと、川柳をやっていなかった頃は、「こうしよう、ああしよう」が多かった気がします。いつも現状を変えていこう、変わることはよくなることなのだ、ということに囚われすぎていたような。川柳をはじめてからはどうだろう。川柳は自分に対する肯定感、共感を持っていないと書けない。
今なら「まあ、足りないものはいろいろあるけど、持っているもので楽しく暮らしてい こうか」となるだろうけど。
たむらあきこさんが「たむらあきこ千句」(新葉館出版)という句集を上梓された。千句を選句するには、その何倍もの「選ばれなかった句」があり、さらにその何十倍もの「詠んだ句」があるわけで、どの一句も、その背景にある何千もの心情を感じるようで圧倒される。
ヒマワリの貌にもすこしある斜め
もう止まりなさいと暮れていくらしい
その次を言えないきみの中の雨
ふり返るあんなところに風がいる
にんげんの耳を残している闇夜
川柳は自分を描く、描かなければならない文芸であるが、「自分は金持ちで恰好もよくて女性にもモテモテで…」とか川柳に書いても (たとえ本当だとしても) 面白くないので誰も読まない。同様に「貧乏で不細工で街を歩くと職務質問ばかりされて…」という川柳も(共感はしても)読むのが辛い。そこではなくて、与えられた境遇の中で自分は物事をどのように考え暮らしているか、を描くのが川柳の大切なところだと思う。そのためには今の境遇を受け入れなくてはならない。自分が置かれた肉体的な境遇(病気、老いなど)、社会的、経済的境遇(家族、仕事、社会的役割とか)をすべて受け入れ引き受けていこうと決意しなければ、「自分を描く」川柳はなかなか描けない。
たむらあきこさんの句集、どの句からもその「決意」が読み取れる。自己肯定、自己共感、決意。この千の川柳たちに励まされる人は多いのではないだろうか。
あっけない訃へ雨脚が寄ってくる
わたくしの中に私を撃つ私
はなびらのほどけるようにいなくなる
さみしくてゆるせる距離も測れない
もう骨であることの不思議さきみの葬
たむらあきこさんの句集を読みながら、川柳は自分を受け入れ、共感し、決意し、それを描く文芸だ、というところまで辿り着いた。
で、最初に戻ると、「川柳を書いてしあわせになれるのか、こころ豊かになれるのか」という問いかけはどうだろう。
たとえば定金冬二晩年の句
一老人 交尾の姿勢ならできる
にある、ひとりの男の老い方、生き方をどう感じるか。晩年の冬二がどのような境遇にあったのかは資料もなく残念ながらわからないが、この句からは不幸な匂いは感じず、むしろ生きる愉しさが感じられる。もちろん万人にあてはまるわけではないが、川柳を書き続けることで「こころ豊かで自分がしあわせと思える」人生を過ごすことができるように思う。
きみをさがすきのうがすこし澄んでから
いつかきみを想う恋文とっておく
きみの腕の中にわたしを爆ぜさせる
この世という地図にぼんやり立っている
空白としておくあなたへの後記
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