コロナ禍がなんとか終息すれば、山頭火のゆかりの地をたずねる「山頭火吟行」にでかける。赤太字の地を中心に足跡を辿る。句は、五七五と七七(短句)で詠む。“自粛”中の時間を有効に使って、山頭火の遺した日記や句をていねいに読み返してみようと思う。今年の出版予定は『たむらあきこ吟行千句』だが、さいごにそこに「山頭火吟行」が入るかもしれない。終焉の地・松山市の一草庵はすでに二回訪ねて句も詠んでいる。下記は、山頭火年譜。(Wikipediaから、一部)
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種田 山頭火(たねだ さんとうか、1882年(明治15年)12月3日 – 1940年(昭和15年)10月11日)は、日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。佐波郡(現在の山口県防府市)の生まれ。「層雲」の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。本名・種田正一(たねだ しょういち)。
自由律俳句の代表として、同じ「層雲」の荻原井泉水門下の同人、尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や兼崎地橙孫ら支持者の援助によって生計を立てていた。その基因は、11歳の頃の母の投身自殺にある[1]。
なお、「山頭火」とは納音(なっちん)の一つであるが、山頭火の生まれ年の納音は山頭火ではなく「楊柳木」である。「山頭火」は、30種類の納音の中で字面と意味が気に入った物を選んだだけであると『層雲』の中で山頭火自身が書いている。また、「山頭」の定義には「火葬場」も含まれている[2][3]。このことから、「山頭火=火葬場の火」と解釈できるという説もある[3]。山頭火がこの意味を意識して名前を選んだ可能性について、山頭火の母親の死との関連性が指摘されている[3]。
山頭火は晩年の日記に「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と記している。その時にはすでに無一文の乞食であったが、乞食に落ちぶれた後、克明な日記をつけ続けている。その放浪日記は1930年(昭和5年)以降が存在し、それ以前の分は自ら焼却している。死後、遺稿日記が公開され、生涯の一部が明らかになった[5]。
- 1882年(明治15年)12月3日 山口県佐波郡西佐波令村第百三十六番屋敷(現・防府市八王子二丁目十三)にて大地主・種田家の長男として生まれる。父は竹治郎、母フサ。1年前には姉のフクが生まれている。のちに妹シズ、弟二郎、信一が生まれ、5人兄妹となる[6][7][8]。
- 1889年(明治22年)4月 正一、佐波郡佐波村立松崎尋常高等小学校尋常科に入学。
- 1892年(明治25年、10歳)3月 母フサが、父竹治郎の芸者遊びなどを苦にして、自宅の井戸に投身自殺。享年33。以後、正一は、祖母ツルの手によって育てられる。少年時代の楽しい思い出はこの出来事で完全に中断される。成人後に山口へ戻るたびに「私の性情として憂鬱にならざるを得ない」と述べており、母の自殺が放浪者としての山頭火を決定づける基因となる[9]。
- 1896年(明治29年、14歳)4月 私立周陽学舎(三年制中学。現・山口県立防府高等学校)へ入学。学友らと文芸同人雑誌を発行。地元の句会によく顔を出していたという話もあり、正一が俳句を本格的に始めたのは1897年(明治30年、15歳)前後、周陽学舎在学の頃だとみられている[10]。
- 1899年(明治32年、17歳)7月 周陽学舎を首席で卒業。同年9月、県立山口尋常中学(現・山口県立山口高等学校)の四年級へ編入。新たな環境にてあまり親しい学友もおらず、土曜日には佐波山洞道を抜けて防府の実家に帰るのが常だったという[11]。
- 1901年(明治34年、19歳)3月 山口尋常中学を卒業し、同年7月、私立東京専門学校(早稲田大学の前身)の高等予科(明治34年4月、早稲田大学予備科として新設)へ入学。
- 1902年(明治35年、20歳)7月 東京専門学校高等予科を卒業し、同年9月、早稲田大学大学部文学科に入学。しかし、1904年(明治37年)2月、神経衰弱のため早稲田大学を退学。しばらく東京に留まるが病状が回復せず、同年7月、実家へ帰郷。
- 1906年(明治39年、24歳)12月 父竹治郎が吉敷郡大道村(現・防府市大道)にあった古くからの酒造場を買収。一家で移り住む。そして、その翌年頃から種田酒造場を開業したとみられる[12]。
- 1908年(明治41年、26歳) 酒造に失敗し、防府に残っていた家屋敷を全て売却している。
- 1909年(明治42年、27歳)8月 佐波郡和田村高瀬の佐藤光之輔の長女サキノと結婚。翌年には長男健が生まれる。
- 1911年(明治44年、29歳) 防府の郷土文芸誌『青年』が創刊になる。その雑誌にて「田螺公」という旧号で定形俳句を、「山頭火」の号で外国文学の翻訳などを発表[13]。
- 1913年(大正2年、31歳) 荻原井泉水が主宰する『層雲』3月号にて、初めて投稿句が掲載される(『層雲』にて自由律が始まるのは翌年の大正3年4月からとされる[14])。同誌5月号にて選ばれた2句に於いて、俳号にも「山頭火」という号を使い始める[14]。同年8月、編集兼発行人として個人で文芸誌『郷土』を創刊[15]。
- 1916年(大正5年、34歳)
- 1919年(大正8年、37歳)10月 妻子を熊本に残したまま単身上京。妻サキノとは翌1920年(大正9年)11月、戸籍上離婚となっている[17]。
- 1923年(大正12年、41歳) 関東大震災に遭い熊本の元妻のもとへ逃げ帰った。熊本市内で泥酔し、路面電車を止めたところを顔見知りの記者に助けられ、市内の報恩禅寺(千体佛)住職・望月義庵に預けられ寺男となった。
- 1924年(大正14年、42歳) 得度し「耕畝」と改名、味取観音堂の堂守となる。
- 1925年(大正15年、43歳) 寺を出て、雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行い、旅先から『層雲』に投稿を続けた。
- 1932年(昭和7年、50歳)、郷里山口の小郡町(現・山口市小郡)に「其中庵」を結庵したが、体調不良から来る精神不安定から自殺未遂を起こす[18]。
- 1936年(昭和11年、54歳) 雲水姿で山梨県小淵沢から長野県佐久までを歩き、数々の作品を残す[19]。その後も東北地方などを旅した。
- 1938年(昭和13年、56歳) 山口市湯田温泉街に「風来居」を結庵。
- 1939年(昭和14年) 愛媛県松山市に移住し「一草庵」を結庵。
- 1940年(昭和15年) 10月11日、脳溢血のため一草庵で生涯を閉じた[20]。享年58。
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