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日本の古語においては、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」とも書き、相手をいとおしい、かわいい[2]、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさま[2]、を意味した[3]
近代に入り、西洋での語義、すなわち英語の「love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。その際に、「1. キリスト教の愛の概念、2.ギリシア的な愛の概念、3. ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多様な用法が作られてきた。(Wikipediaから、一部)

 明治期前後に翻訳された「愛」の原語は、「love, Liebe, amour」。日本には仏教用語の「愛」はあった。しかし「恋」は、「色恋」はあったが、いわゆる西洋的な意味での「愛」はなかった。恋愛ということばは、日本語では比較的新しいことばなのである。

 二葉亭四迷は、小説『浮雲』の中で「ラヴ」と表記。その後「愛」と書いた。二葉亭四迷は、翻訳中に出合った一節に苦渋、「死んでもいい」と訳した。その原文が「I love you.」であるとか。漱石は、それを「月がきれいですね」と訳したとされる、笑。「あなたを愛している」ということばは、今日でさえ日本人の心性には馴染まないのではないだろうか。

 人間にとっての、根源的な愛が自己愛。これは自分を支える基本的なちからとなるもの。 生まれたばかりの赤ちゃんは、親と接しながら自己・他者の認識を形成していくという。自分が無条件に受け入れられていると実感することが、自己愛の形成に大きく関与するらしい。愛されていることを前提に生きていけることは、自分を大切にし、かつ自己実現に向かって進むことのできる土台となる。自分を愛せることは、他者を尊重することにもつながる。

 すなわち、自己愛が育ってはじめて他人を愛することができるようになるのだ。自分を愛するように人を愛することができる、というわけである。自分を愛せない人が人を愛することはむずかしい。子どもによっては、虐待され、自身の尊厳を侵されたりするような環境に置かれていることもある。この場合、自虐的な性格になる可能性もあるだろう。そんな子ども(大人)が自己愛を取り戻すには、自分が無条件で受け入れられていると実感できる体験が要るのだ。

 未熟な恋愛で、「恋(している自分)に恋している」などということがあるが、これは対象を愛している自分に酔っている状態を揶揄するもの。これも自己愛の一つのかたちだろう。また、そういう自己愛とは別に、愛する能力があるかどうかということも問われる。他者を愛する能力のない人は、人間関係で悩むことがないともいわれる。また、愛したいけれども愛せない、こころの交流がしたいのにできないという悩みがあるという。なぜ悩むのか、逆にそれは人を愛する能力があるからなのだ。こころが不完全燃焼しているのは、愛したいのに愛しきれないから。とまれ、「愛」はまず自己愛からはじまるということを考察してみた。

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