新宮の文化は、熊野古道と黒潮ルートという二つの道をへて長い間に培われてきた。
太平洋に面した新宮のまちは、荒海をものともしない進取の気性をもった男たちを育んできた。中世には熊野三山信仰が盛んになるとともに、熊野古道を通じて華やかな都の文化の洗礼をうけてきた新宮は、江戸時代には海のルートを通じて江戸と結ばれ、良質の新宮炭と熊野材を送り出すかわりに江戸の文物が流入した。
幕末には開明藩主・水野忠央によって海外の新知識ももたらされた。その影響が新宮藩士や一般の町人層にまで及んだのが、新宮文化の大きな特徴となっている。このまちで醸成された濃密な「文化のDNA」が、さまざまな分野で異能の人材を輩出する素地ともなった。
忠央の命により海外の文献を翻訳した柳川春三、宇都宮鉱之進は、幕末では有数の知識人だった。新宮藩で督学をつとめた春三は、慶應元年(1865)幕府開成所(東京帝国大学の前身)教授頭取のポストについた。のちに春三は中外新聞(日本人による初の新聞)を刊行して日本のジャーナリズムの先駆者ともなった。新宮に最初のキリスト教の教会を建てたのは素封家の大石余平で、長男・伊作は母の実家・西村家を継ぎ、ユニークな教育方針で知られる文化学院(東京・御茶ノ水)を創立した。余平の弟が「ドクトル」の通称で町民に親しまれた大石誠之助である。新宮の仲ノ町で医院を開業した叔父・誠之助について、伊作は著書『我に益あり』で「ドクトル大石は川柳に興味をもっていて、川柳の宗匠というものになっていた。新宮の町には昔からおもしろい人がたくさんいて、川柳のような皮肉なユーモアのある文芸が好きな人が多かった」と書いている。禄亭と号した誠之助は、絵入りの風刺雑誌『団々珍聞』にしばしば都々逸を発表したり、新宮の「おもしろい人」の代表であった。(新宮市観光協会 https://www.shinguu.jp/shinguu-modern)
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上記文中「川柳の宗匠」というのは、五世川柳水谷禄亭とごっちゃになっているのでしょうかね、笑。水谷禄亭なら江戸時代の人。いまは十六代目櫻木庵尾藤川柳氏。(↽新宮市観光協会に連絡させていただいたところ、訂正していただけるようです。)
大石誠之助についても、これから知識を深め、考えを深めていきたい。二日間では、時間的にどれほども歩いてこれないだろうが、熊野についての思索も深めて句作につなげたい。
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