わたしはいま、父母が逝って遺された実家をどうするかということで日々頭を悩ませている。いつまでも生きていられるわけではないので、頭がしっかりしているうちに息子やきょうだいとも相談し、どうすればよいかを探らないといけない。
地方の国立大学の大学院博士前期課程(情報工学)を修了してから就職して東京に出た息子は、東京が気に入っているらしく、いまのところ帰るつもりはなさそうである。築50年を超える実家に住みたいとは露ほども思っていない。16年前に亡くなった父の遺した著書や水墨画、蔵書をいまだにどうにもできずにいるのである。処分しきれない思いがずっと継続している。父母の〈こころざし〉が凝縮されているような空間を、何年経とうと娘が簡単にいったいどうできようか。
両親から受け継いだものは何かと、考えることがある。夜中にふと目が覚めたときなど、来し方行く末になんとなく思いをめぐらせる。最近、目に見えるものだけでなく、目に見えないものをたくさん受け継いでいるかもしれないと思うようになった。四十代も終わり頃、たまたまたどり着いた川柳にのめり込み、いまそれをライフワークとしていることも、そもそも歌人でもあった父母の影響だろう。
いまだに、和歌山市の『国文学の集い』で父の講義を聞いておられた方からお盆に父へのお供えが届いている。なんと年に三度のお供えである。ほかにも、ご自身が亡くなられるまで年に三度のお供えをしていただいた方もおられる。高校教師だった父は管理職を断っていた。授業が面白かったようで、亡くなったあとエピソードがあちこちから聞こえてきた。同僚の先生方の信頼もあつく、「分からないことがあれば田村先生に聞けば分かる」とまで言われていたらしい。ただ酒呑みで、家族は苦労したが、外では存在感があったようだ。
退職後、私立高校や予備校から講師の依頼があったが、すべて断り、四十代から始めた水墨画の趣味をたいせつに京都にアトリエをもつほどだった。父なりに余生を充実させていた。母の死後一人暮らしだったが、調理師免許を取るくらい料理が好きだったので、食を楽しみ、まずは悠々自適の晩年だったかと思う。享年78。(前田咲二先生とおなじ1926年生まれなのね)
続きは次回
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