新型コロナウイルス騒ぎで自室にこもる日々がなんと2月半ばから二か月以上も続いている。そういう状況下で、自ずからいつもよりさらに内省的な思索をかさね、生きる意味とは何かということをこの騒ぎにからめて考えてみた。
この問いは、経済的に豊かな国であるほど人々にとって切実な問題となってくる傾向があると言われている。物質的に豊かな国ほど、心のむなしさにさいなまれる人々が増えるというのはいったいなぜだろう。基本的欲求のすべてを満たして、ようやく自己実現の欲求といった高次の欲求に駆られるのか。豊かな社会は基本的欲求を満たしやすい社会なので、高次の欲求が発現しやすく、それが満たされない苦しみにさいなまれるということなのだろう。
財産や地位などに不足のない、はた目には恵まれている人々にこのような問いで悩む人が多いとか。望んで得た財産や地位も、手に入れてみるとまったく幸福という実感がなく、自分の人生には何かが欠けているという気がしてむなしさを感じる人々が多いのだという。そのとき、残された人生で何をすればよいのか、どう生きていけばよいのかという問いと向き合うことになる。だれしも自分の人生に足りないものを補わねばならない。空虚感からのがれるためにも。
もし自分の存在がだれかのため、または何かのために必要かという問いに肯定的に答えられれば、それだけで生きがいがあるといえる。自己肯定は生きていくうえで大きなちからなのだ。パンデミック、この明日の見えない状況の中だからこそ生きるとは何かということに想いをめぐらし、コロナ後の人生をより意味あるものにするというように、発想の転換をはかりたいと思うのである。
本日久しぶりに自転車で市役所まで。用事を済ませ、市役所をでてすぐ南の和歌山城に目を遣ると、耀くばかりの若葉の塊に呼びとめられた。人影もあまりなく、いつもなら和歌山城内に若葉を楽しみに入り、あと紅葉渓庭園の茶室で抹茶と和菓子をおいしくいただくのだが。やはりコロナ騒ぎのいまはと思い直して、まっすぐに帰ってきた。
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