若い頃「生きている意味が分からない」とか「人はなぜ生きるのか?」とか、思わないではなかった。 あるいはその答えを求め続けてのいまなのかもしれない。むろん〈生きる〉とは単に生存するということではない。我われの生は、食べていくことができればそれでいいということにはならない。生物として「生きる」だけではなく、〈人間〉として「もっともっと生きたい」という気持ちを抑えられないのである。
生きている、でもどこか虚しい、何かが足りない。何が足りないのか、この問いの答えはたぶん簡単ではない。ともするとそれに向き合いきれず〈自己欺瞞(自分で自分の心をあざむくこと)〉に陥ってしまったりする。虚しくて、怪しい宗教にはまってしまう人もいるだろう。こころの隙間を埋めてくれる何かがそこにあるような錯覚に陥るからである。
「人生は無意味だ」「人間いつか死ぬんだから(頑張ったってしょうがない)」として、生きる意味や人生そのものを否定しようとする人もいる。しかし心中では何か〈生きる意味〉を見出して生きていきたいと、誰もが願っているはず。つぎはオスカーワイルド(1854年 -1900年、アイルランド出身の詩人、作家、劇作家)のことば。
『人生には選ばなければならない瞬間がある。自分自身の人生を充分に、完全に、徹底的に生きるか、社会が偽善から要求する偽の、浅薄な、堕落した人生をだらだらと続けるかの、どちらかを。』
結果だけに焦点を絞ると、〈日常〉という名の今現在はそれぞれの一応の目標に到達するためだけの繰り返しの退屈かつ苦痛なものとなってしまう。それは味気ない単調な作業のようなもの、あえて言えば刑罰のようなもの。しかしそれをどう意味づけするかで人生は大きく変わる。
登山と人生は似ていると言われる。登山を、もちろん川柳など文芸の道に置き換えてもおなじである。ある有名な登山家(ジョージ・マロリー)が「なぜ山に登るのか」と問われ、「そこに山があるから」と答えたという話は有名。命をかけてまで登る理由は、一般人にはわからないかもしれないが、本人の中にはある。「言葉にはできないけれど、どうしようもなく」と答えるほかないのである。いまを生きることに、自分の限界を超えることに喜びを感じているのだ。いわゆる〈生き甲斐〉をそのことに感じとっていることが重要なのだ。わたしが川柳を追求し、詠み続けているのもおなじこと。結局人生の意味は自分でつかみ取るもの、自分が自分自身に与えるものなのではないか。
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生まれてきたのは、魂の修行のため・川柳も含め 全ての文芸 広くは、全ての芸能芸術なども 魂向上のための手段や、方法のように思える。もちろん日々 食べて寝て動いて、命を繋ぐ全ての行いが修行・その行為に伴う念いこそが大事。「風」は見ることも触ることも出来ないが、存在は確かに有る。時実新子がどこかで「大いなる力」と言ってた気がするが、まさしくその力とは風のよう。それを感じることができるように、修行の毎日を生きる。
匿名さま
おっしゃりたいことは、なんとなく分かります。
すこし話は逸れますが、畏友は「(死んだら)草葉の陰にいる。墓にはいないと思う」と。
日本の仏教は印度の仏教とはかなり違うようで。
お盆にたましいがかえってくるなどというのは、印度の仏教の考え方にはないと。
わたしも、なんとなく草葉の陰というように思いますね。
川柳を通じて、にんげんのいささかが詠めたらいいと。
そんな気持ちで川柳行脚をしております。