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 新葉館出版の松岡氏も困っておられることだろう。いちど〈決定〉とした原稿のファイルに手を入れ続けているのだから。どうしても迷いが出てしまうのは、まず全部で400句足らずの先生の句の選び方。最終的に原案に戻してダブっている句だけを削除していただき、その穴をほかの句で埋めるだけのことに。
 じつは、先生は句集を最終的に出さないつもりだったのね。(出すときは)りっぱな装丁の句集を、俳句も短歌もいっしょにして全集として出すとおっしゃっていたのに。そのために先生の詳しい履歴もお聞きして、書き留めているメモもあるのです。(それが、どこにしまったのか、出てこないのね) あきこの勧めを、どういうわけか「もう、言うな」とさいごに止められたのね。でも、句集を出されるつもりだった時期の先生のご様子を覚えているだけに、やはり遺句集は出さないとと思っているのです。
 先生は、ご自分の句の中に〈思い〉らしきものをなんとなく残しておられる。次の3句がそれなのね。これが先生のこころにあった(句集を出さない)理由なのか否か、あきこにも分かりません。
  人波の中に写楽の顔がある
  主役にはなりたくないという写楽
  写楽のように上手に影を消せないか

…‥‥‥‥‥‥………‥‥‥‥‥‥………‥‥‥‥‥‥………‥‥‥‥‥‥……
江戸名所図会』などで知られる考証家斎藤月岑天保15年(1844年)に著した『増補浮世絵類考』には、「写楽斎」の項に「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」(通名は斎藤十郎兵衛といい、八丁堀に住む、阿波徳島藩蜂須賀家お抱えの能役者である)と書かれている。長くこれが唯一の江戸時代に書かれた写楽の素性に関する記述だった。当時の八丁堀には、徳島藩の江戸屋敷が存在し、その中屋敷に藩お抱えの能役者が居住していた。また、蔦屋重三郎の店も写楽が画題としていた芝居小屋も八丁堀の近隣に位置していた。“東洲斎”という写楽のペンネームも、江戸の東に洲があった土地を意味していると考えれば、八丁堀か築地あたりしか存在しない。さらには“東洲斎”を並び替えると、“さい・とう・じゅう”(斎・藤・十)というアナグラムになるとも推測できる[注 3]。しかし、長らく斎藤十郎兵衛の実在を確認できる史料が見当たらず、また能役者にこれほどの見事な絵が描ける才能があるとは考えづらかったことから、「写楽」とは誰か他の有名な絵師が何らかの事情により使用した変名ではないか[注 4]という「写楽別人説」が数多く唱えられるようになった。蔦屋が無名の新人の作を多く出版したのは何故か、前期と後期で大きく作品の質が異なるうえ、短期間で活動をやめてしまったのは何故か、などといった点が謎解きの興味を生んだ。(Wikipedia)

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